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このページの先頭へ                                         主の昇天の祝日 金 大烈 神父   2008年5月4日
    
                       ≪主の昇天の意味≫
   おはようございます。お元気ですか? 今日は何の日かご存知でしょうか? 主の昇天のお祝いの日ですね。しかし、皆様の顔を見ますとそんなに元気じゃない気がしますね。喜びの日ですので喜びを持ってミサに与かって頂きたいです。説教に入る前に一言を話しをしたいです。今日の答唱の内容は 「主は昇られた喜びの叫びのうちに」 でしたよね。しかし、皆様の歌の声は中身と違い、全然喜びがない声のように聞こえますね。もう一度皆様、笑顔で歌ってみましょう。そしていつも歌うときはその言葉の意味は何を表しているかを感じて歌って下さい。うれしい歌の時はうれしい気持ちを持ち、悲しい歌のときは悲しい気持ちで歌ってください。歌を上手く歌えばその歌自体が祈りになります。そして聞いている人にも祈りになります。いつも意識しながら歌いましょう。
   それでは、主の昇天の祝日は私達にとってどういう意味があるでしょうか? ただ、イエス様が天に上げられたということでしょうか? この主の昇天の祝日を迎えた私達は何を思い出せば良いでしょうか? 簡単に説明します。私達はイエス様のことを神様の一人子、御父の一人子と教えてもらって信じています。御父が人間の堕落した模様を見て、もどかしい心で自分の愛している息子を人間の形でこの世の中に使わしました。使わされたイエス様は御父からいただいたいろんな使命を全部果たし、十字架につけられ死を迎え、3日後御復活されて神様の形で天に上げられたということを主の昇天だと言います。主の昇天のことは未来のことを意味しています。私達はがんばっても、いい薬を飲んでもこの世の中では永遠に生きることは絶対出来ません。順番が互いに違うかも知れないですが、誰でも例外なく死にます。主の昇天の祝日に向かって私達が考えることは、イエス様によって示された新しい生命・生き方・変らない・終わらない命の世界を思い出すことです。主の昇天が私達に意味があるとすればそれは私達の終わってしまうこの世ではなく、変らない永遠の命の世界、新たな命を受けることであり、それを理解して、その新しい命を受けるために私達はどうすればいいのか、今過ぎてしまうこの世の中に執着しない方法は何だろうか、イエス様が見せて下さったその道をどうすればついていけるのかを改めて考えることです。そしていつか私達が行かなくてはいけない永遠の世界に希望を置くことです。主の昇天の祝日をもう一回振り返って見ましょう。今日私達が何よりも受け入れなければならない教えはこの過ぎてしまう、腐ってしまうこの世の中であまり欲張る姿で生きないことではありませんか。何の役にも立たないことに心を注ぐより、自分の霊的なところに傷つけるものは出来るだけ避けようとする決心が必要です。それが主の昇天の祝日にイエス様が私達に送って下さったメッセージだと思います。私達は極めて求めるものはこの終わってしまう世界ではなく、約束された新しい変らぬ恵みの新生活であることを心に刻んで頂きたいんです。
  もう一つについて申し上げたいです。4日前にあるブラジルの赤ちゃんが亡くなりました。その赤ちゃんは2ヶ月前に産まれつきの病で病院の世話をもらいましたが、結局亡くなってしまいました。赤ちゃんの親の仲間から赤ちゃんを火葬場に行かせる前に来てもらって、お祈りを願ってもいいかという連絡がありました。行ってみました。そこは葬儀場で赤ちゃんの棺の後ろに神道式の祭壇が飾られた所でした。入ると違う気が流れていることを司祭は感じます。とても気持ちが良くありませんでした。そしてそこで私は祈らなければならないことでした。なぜ親はこのような方法しか探せなかったのかと思い、本当に悲しくなりました。とにかく、両親に出来るだけ赤ちゃんの棺を教会の聖堂に運んでこられるように話し合ってもらいましたが、式場の関係で無理だったので、後で教会で赤ちゃんのためにミサだけ捧げました。お願いします。信仰は絶対お金と関係ありません。特に外国人は教会でお葬式したらお金がかかるとか、司祭呼んだら謝礼をしなければいけないと要らない心配をする場合があります。お金が欲しかったら私は神父に成らなかったと思います。お金の問題ではありません。なぜお金と信仰をつなげて考えるんですか。 赤ちゃんが死んで神様に呼ばれた時親が思い出すのはお金ではなくどうすればこの子をきれいに見送ることが出来るのかを考えなければいけないのです。個人的に日本語の納得が出来ないところがあります。それは金に‘お’という尊敬を表わす接頭語をつけるかということです。ただ金です。実際に金によって困る世界ではありませんか。教会の信仰さえお金を考えずに出来なかったらそれは教会ではありません。もし金がないから、この子供のお葬式のミサが出来ませんと言ってしまったらそれは司祭ではなく獣です。お金の問題ではありません。お願いします。今日のこのミサに預からなかった人々にも伝えてください。こういうことに困った人に何よりも子供のことを考えて欲しいと伝えてください。金が全然なくて困ったら教会が払います。必要なお金なら教会が払うべきです。それが教会の姿です。まず子供の命を考えていただきたいです。それが一番大切なことではありませんか。
  さあ、次の話しです。条件洗礼と言う言葉を聞いたことがあると思います。条件洗礼ってそれは何ですか。洗礼は誰が授けるんですか。 皆さんも洗礼を授ける権利があります。洗礼はもちろん司祭が授けますが洗礼を受けた皆さんも洗礼を授ける権利があります。未信者の臨終の時、皆様も条件をつけて洗礼を授けることができるし、それは権利であり、義務です。もし道を歩いていて目の前で交通事故が起きて倒れて死にそうな人の姿を見たらどうしますか? もちろん救急車を呼びます。そして道で溜まった汚い水でもあったらその水で洗礼を授けるべきです。 「もしも、あなたが洗礼を受けるのに相応しいであれば、私はあなたに父と子と聖霊の御名によってあなたに洗礼を授けます」 ということです。そして、親は信者で司祭が来るのが間に合わない赤ちゃんの緊急の場合は急いで親が洗礼を授けられます。私達はいつも意識するべきことがあります。もう一回確かめる質問させていただきます。皆様は洗礼を授けられるのでしょうか? はい、出来ます。そしてもしかして、この人は呼ばれるかもしれないので、そのときは信者としてこの人の協力者になるという意識です。勿論、そのような条件の洗礼を受けた人が意識を取り戻し回復したらその洗礼は無効になります。回復したら司祭のところに連れて行って洗礼を本当に望んでいるかいないかを確かめて要理の勉強をして正式に司祭から洗礼を授けてもらいます。  
  今日の主の昇天の祝日を迎えてこのミサ前に4人の赤ちゃんが洗礼を受けました。うれしいことです。このミサを通して、この4人の赤ちゃんたちが綺麗に成長するように祈っていただきます。
  ゴールデンウィークでミサに与かる人が少ないんじゃないかと思いましたけど沢山の皆様が来られましたのでうれしいです。
  今日の福音を通して私達がなぜこの世に生きているのかを、どのような生き方をすればいいかを、私達が望まなければいけないものは何なのかを悟る日曜日になって欲しいです。そして、私達の持っている信仰の権利と義務についてもっと深く考えて見る機会になってほしいです。

                                          ありがとうございました。
 

2008年 4月6日
     
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このページの先頭へ                                         復活節第6主日 金 大烈 神父   2008年4月27日
    
                     ≪クリスチャンとしての愛の実践≫
  二週間私が韓国へ行っている間、ミサがなかったことをあやまりたいです。
司祭の立場では気になる二週間の日曜日でした。実際旅に行く前にいろいろな思いがありました。他の司祭に頼んで皆様がミサに与れるのが正しいのか・・・。しかし、私の頭の中に望みがあって、最終的に他の司祭に頼むより司祭がいない条件で日曜日を過ごしてもらった方が良いのではと、み言葉の祭儀にしました。その理由はミサって本当に大事だということを心と体で実感して欲しかったからです。皆様には他の思いがあったかもしれないのですが。先週の日曜日、祭儀に来られなかった人、手を上げて頂けますか。先々週の日曜日に来られなかった人は? ミサの方がいいでしょう? そうではないですか? 言葉が解らない外国人の立場でもミサの方がいいのではないでしょうか。そういう意味で良い体験になるのではないかと思ってわざわざこのようにしました。
  日本の教会の現実として日曜日でもミサが捧げられない教会が結構あります。しかし皆様は各自の言葉でいろいろな国の人々がミサを捧げることができる。このことについて神様に感謝すべきではないでしょうか。このような思いが強かったのです。ミサの大事さ、なぜ私達がミサを通らなければならないのか、信仰の中でご聖体を通して現されるイエス様が中心にならなければならないのか。ご聖体を頂くためには必ずミサが必要であることを私達はなぜ悟らないのか。それを解って頂きたかったのです。皆様本当に大事にしましょう、このミサ。一週間の中で何を優先させるかを決める前に、無意識に「私にとってはミサが一番大事」という思いが皆様の胸に強く刻まれたら、私達の祈りの中で “召し出し” “召命” そういう若者のためにも祈るでしょう。この日本の教会の未来を見ながら若者たちの中にたくさんの召し出しがあるように、「神様日本の教会を守って下さい」 という祈りが自然に出るでしょう。皆様お願いします。カトリック教会は司祭なしには何もできません。それは2000年前からのことです。そういう意味で私達はもっと強く願う心でイエス様に祈りましょう。必ず下さいます。「働き手が足りないのです。あなたが守って下さらなかったら何もできないのです」 という祈りが必要ではないかと思います。
 さて、世界の人口はどの位だと思いますか? 2007年の統計によりますと65億人だそうです。そのうちキリストを救い主と信じている人の人口はどの位でしょうか。キリスト教は大きく四つに分けられます。
 1.カトリック 
 2.新教(プロテスタントとよく言いますが、プロテストとは抗議するという意味ですからあまり使わない方がいいです。教会一致のためにも新教と言う方がお互いにいいのではないかと思います。) 
 3.ギリシャ正教・ロシア正教等の正教会 
 4.イギリスのカトリックの聖公会
  これらの人達をクリスチャンと言いますが世界で25億人位います。世界の人口の3分の1を超えます。二番目に大きい宗教はイスラム教ですね。イスラム教は何を信じていますか? “神様” ですね。キリスト教はイエス・キリストを通して神様を信じています。神様がいないと言う人は結局5%たらずです。ですから世界の人口の4分の3が形は違うかもしれませんが、神様を信じて自分が救われたいと願っているのです。そして救われるために神様が教えた掟を守りたい、そういう希望を持って各自が信仰の生活をしているわけです。
  4分の3の人が宗教を持っているとしましょう。ほとんどの人が宗教心を持っているわけですよね。しかし、この世の流れを見てみますと、食糧がたりなくて小麦やお米、水など一番基本的な物がなくて困っている死にそうな国がたくさんあります。逆に豊かな環境の中では食べ物には困らないでお腹は満たされるかもしれないが、昔持っていた情けや情というものがほとんど見えなくなりました。利己主義的になってしまった。どういうわけでしょう?カトリック信者は15~16億人と昨年の統計では言われています。その内休んでいる人のことを考えても、少なくても5億人以上の人が毎週御聖体を頂いている。どういうことでしょう?この頃テレビ、特にNHKでドキュメンタリーをたくさんやっています。そこに映し出されているのは飢えて死んでいく子供たち。自ら反省しなくてはいけない。私達それぞれの立場でどうすれば良いか。どうすれば神様に喜んでいただける世界に戻れるのか。
  今日の福音でこのように言われていますね。「あなたがたは、私を愛しているならば、私の掟を守る」 掟とは、まず第一に 「神様を愛すこと」。二番目は 「隣人を自分のように愛すこと」。最後に 「私の掟を受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である。私を愛する人は、私の父に愛される。私もその人を愛して、その人に私自身を現す」 と言われています。結局、掟を実践、行うことですね。
  カトリックでは愛の掟の実践に二つの形があります。たぶん、皆様も二つの形のうちのどちらかの生き方をしていらっしゃると思います。
  ひとつは消極的な愛の実践。ふたつめは積極的な愛の実践。消極的な愛の実践とは罪を犯さないようにがんばること。積極的な愛の実践とは、自ら探しながら自分の愛を表現することです。私達の目にどちらがきれいに見えるでしょうか?
  そうです。イエス様が叫んだ福音は消極的な愛ではありません。怖がりで臆病で罪を犯したら地獄に落ちる、そういう恐れによって、逃げ場として罪を犯さないようにする。それは意味がありません。イエス様が叫んだのは積極的に探しなさいということです。そうしたらあなたの中に燃やされる聖霊の働きの体験をすることができると、何回も何回もおっしゃっているのです。皆様、たぶんいろいろな形で愛徳とか、施し、良いことをなさっていると思います。しかし、この世の中、地球村と言われる位狭くなっているのに、前より激しく格差が広がっています。食事のときまず感謝します。そして今困っている子供たちのために、私がどうすれば良いか祈りから始めましょう。そういう小さい動きから私に与えられた使命が現われると思います。
  私達は運命共同体です。一人が死んだら皆死にます。これは神様が約束しました。私達は利己主義的な宗教集団ではありません。信者でも信者でなくても、全然利害の関係がなくても愛の実践をなんとか見せなければならないと思います。 それがイエス様を頂く一番大きな目的ではないでしょうか。お願いします。私も反省します。一緒に良い方向に向かって歩みましょう。
  最後に、私は旅に行って帰って来たんですよね。ですからお土産を持ってきました。率直に申しますと、私の母が皆さまに差し上げたいと用意したロザリオです。ひとつずつ差し上げますので並んで下さい。          
                                          ありがとうございました。
 

 金神父が巡礼旅行中のため、4月13日と20日の【神の種】は休載します。
      
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このページの先頭へ                                         復活節第3主日 金 大烈 神父   2008年4月6日
    
                    ≪信仰とは神に委ねること≫
 ある人というか、大体私達はそうなのかもしれませんが、「今までやってきたのは自分の力でやってきた」 と思っている人が結構います。今まで自分の力によってやってきたというプライドを持っている人が少なくないです。しかし、少し考えてみましょう。自分の辿ってきた道を振り返って、自分はいろいろなことやいろいろな人との関わりによって支えられ守られてきたことを悟るべきです。この世の中には自分の力だけでできることは何もありません。物に対しても人に対しても 「いろいろな物やいろいろな人達に恵まれてきた」 ことを感謝しなければなりません。そして、もっと深く考えてみるとその真ん中に、中心に神様がいらっしゃいます。
 皆さんはどういうタイプですか? 不平、不満、文句が多い方ですか? 自分は客観的にみると否定的だと思いますか? または、何かあっても肯定的に考えるタイプですか? いつも不平、不満に囲まれている人にとって何より大きな損になるのは感謝することができないということです。もし感謝することができなかったら自分の生き方が楽しくない、喜びがありません。人間に与えられる一番大きい喜びというものは結局感謝の心から生じます。私達はどれ位感謝しながらこの人生を生きているでしょうか?よく振り返ってみて下さい。よく考えてみて下さい。そしたら感謝することばかりです。「この世の中のすべてのことを感謝しなければいられない」という気持ちになります。
 ひとつの作り話をします。オリーブの木と杉の木がいました。オリーブの木は適な場所に植えられていました。 「私は成長したら、たくさんの実をつけて人々に褒められたい」 という希望を持って子供のときからそういう心を育てました。又、杉の木は 「私は立派に空までそびえて、みんなに格好いいと言われたい。逞しく大きくなりたい」 という夢を育てました。しかし、オリーブの木は成長しましたが実がみのらなかったのです。その木の持ち主は残念に思いましたが、他の木の邪魔になるのでしかたなく切りました。杉は植えられている所に新しい道路ができたので、空に聳える前に切られました。結局、きれいな夢を持っていたこの二つの木は夢を失ってしまったのです。切られたオリーブの木と杉の木は丸太にされてほかの場所に移されました。オリーブは 「私は実をみのらせられなかったが、職人の手できっと何か良い役立つ物になるかもしれない」 と思っていました。しかし、完成された自分の姿を見ると、牛や馬がエサを食べる飼い葉おけでした。 「私は希望を持って今までやってきたのに、なぜこんなになってしまったのか」 と思い、オリーブの木は泣きました。「自分がやりたかったことは全部できなかった。自分のせいでなく何かの力によってこんなになってしまった」 そして自分は呪われていると思い 「私には神様を愛する理由はない」 と神様も呪いました。そして毎日、毎日辛い気持ちで飼い葉おけの役割をしていました。杉の木も丸太になってどこかに運ばれて行き、何になるのかと思っていました。完成された自分の姿を見たら、それは犯罪者と言われる者たちが処刑される十字架でした。 「私は皆に褒められたかったのに、この姿を見たら人々は私を呪うのではないか。なぜこんなに自分の生き方はメチャクチャになったのか」 杉の木も自分は呪われていると思い、神様のことも呪いました。
  皆様もう予想がつくと思いますが、ある日その飼い葉おけには救い主である赤ちゃんのイエス様が寝床として横たわりました。又、杉の木の十字架は人類の救いのために必ず必要だった十字架の道の主人公の役割をした十字架になりました。
  何か感じられるでしょうか? 私達にはわかりません。神様が御旨によって私達にどのようなことをご計画されているのかわかりません。よく考えて下さい。一年前、私はこの太田教会に来ました。それまで皆様に会うとは全然思っていなかったです。想像さえしませんでした。しかし今皆様とわたしの絆ができています。皆様は私を信頼してくれています。私も皆さまを信頼しています。予想できなかったことです。
  信仰というものはこのような目で見なければならないのです。たぶん、いろいろなことでがっかりしていらっしゃる方が結構いると思います。それも罪です。がっかりするのも罪です。私達にはがっかりする資格がありません。権利がありません。なぜなら信仰というものは委ねることだからです。イエス様は私達に何かご計画があるのかどうか。その計画は何か。良く祈りながらそれを図ろうとする心が私達には必要です。
  イエス様がつけられた十字架になった杉の木は幾つかの木片になって、2000年たった今でも世界のあちこちの有名な聖堂に保管されています。そしてそこには信徒たちが訪れ、接吻し祈りを捧げています。今度30名の方が韓国に巡礼に行かれますが、韓国の教会にもその十字架の木片があります。それはパパ様が認められたもので韓国では宝の木、宝木と言います。そこを訪れた時この話を思い出して下さい。
  オリーブの木の目的は何でしょうか? 実をみのらせることですよね。それが許されなかった。どれほど辛かったでしょう。しかし、イエスさま、神様のご計画は違うところにあったと後で悟るのです。
 皆様お願いします。いろいろむずかしいことや問題があると思いますが、何より神様に委ねることです。 「神様、あなたが良くして下さることを信じます。私はあなたのみ言葉に従うことだけをします」 と言えば、全部神様が責任をとって下さる。これが私達に何より必要な信仰の姿だと思います。
 今日の福音はエマオに行く二人の弟子の話でした。道でイエス様に出会って、イエス様がパンをさいた途端にイエス様だとわかったという復活の体験が語られています。この二人はどのように言いましたか? 「道で話しておられたとき、又聖書を説明して下さったとき、私達の心は燃えていたではないか」
  皆様、み言葉を聞いて祈るとき心が燃えた経験があるでしょうか? 熱く燃えたり、これが真の人生だと悟った記憶があるでしょうか? 復活の体験とはこんなに熱いのです。自分が今まで科学的に考えられなかった体験がこの中で生じるのです。私達は頭と胸と共に生きています。頭で論理的に考えます。しかし、感じるのは胸です。胸で感じられなければ絶対熱くなりません。人間を幸せにさせるのはこの胸です。胸で信仰の道を歩もうとする努力が何より必要ではないでしょうか。

                                            ありがとうございました。
 

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このページの先頭へ                                         復活節第2主日 金 大烈 神父   2008年3月30日
    
                      ≪信仰とは求めること≫
おはようございます。今日はミサの中で洗礼式があります。1人の大人の方と6人の子供達です。そのため、今日の説教は簡単にさせて頂きます。
  人によって、信頼を持って人を良く信じる人がいます。また逆に初めから疑いを持って、物についても人についても余り信じることの出来ない性格の人もいます。皆様はどちらでしょうか? 人間関係においてまず疑いから始まるのでしょうか? 「だまされてもいいよ」 と信じながら始まるのでしょうか。皆様はどちらですか。
  人間関係について考えてみると、皆この社会の中で子供の時から今まで、人にだまされた経験も、傷つけられた経験もあります。ですから子供たちに、「条件なしに人は必ず信じなくてはならない」 と教えるのは少し難しいことだと思います。実際に人間の関わりの中では、人を疑いながら、また確かめながら、何とか前を見なければならないのが、私達人間の関わりではないでしょうか。しかし 「神様に対して私達はどうすればいいか」 を考えてみましょう。純粋に、言われたとおり神様を信じる人々もいます。しかし何についても確認しなければ、イエス様に対して、またイエス様の教えについても信じることが出来ないという人もいます。皆様はどちらですか。イエス様を堅く信じていますか? イエス様を信じていますか?
  そうです。イエス様のことは私達の心によって、私達の意志によって信じられることではありません。信仰というものは、イエス様が許して下さらなかったら出来ません。
  信仰とは求めることです。自分がつくるものではなく、求めるものです。求めるものとはどういうことでしょうか。神様が、イエス様が許されなかったら、求められないことになるのです。ですからよく考えてみて 「なぜ私は信仰が浅いのか」 と思われる方は 「イエス様、あなたを強く信じることが出来るように許して下さい」 と祈るべきです。祈りましょう。この祈りが無ければ私達はイエス様が見せようとしたお言葉の意味をそしてイエス様に対する信頼感も得ることが出来ないと思います。
  今日の福音の中でトマスが 「イエス様の脇腹に直接自分の手を入れ、手の釘の後に自分の指を入れなければ私は信じません」 と言ったこと、それは悪いことではありません。たぶんトマスも求める心だったのでしょう。ですから 「あなたの信仰を私が強くしよう」 とイエス様はわざわざご自分で現れて信じるようにしたのです。その体験によって、トマスはインドまで行きました。そして素晴らしい殉教をしました。
  結局、私達が持っている信仰というものは、神様が作って下さったものにほかならないのです。ただ私達は求める心が何よりも必要ではないかと思います。
                                            ありがとうございました。
 

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                         復活の主日 金 大烈 神父   2008年3月23日
    
                         《ご復活おめでとうございます》
 昨夜のミサに来られなかった方いらっしゃいますか? 昨日挨拶が出来なかった人もいるので一緒に隣の人と挨拶しましょう。そしてブラジル、フィリピン、韓国、インドネシアの人は、日本語の 「ご復活おめでとうございます」 を練習して、大きい声でお互いに挨拶交わしましょう。 そして今皆さんがご復活祭の記念に、これから会う人に見せなければいけない顔は今の笑顔です。
  これから皆様に質問します。今の皆様の心はどうですか? 平安な心でしょうか? それとも落ち着かない心でしょうか? もう一つ質問します。イエズス様が復活されてから初めて言った言葉は何でしょうか?
「平和があなたがたと共に」 です。この言葉の意味は私達の心にもし平和な心がなかったら、私達はまだ復活を味わっていないことになります。平安な心は何でしょうか?痛み、心配、憎しみがない心でしょうか? おもしろい心でしょうか? それとも気持ちいい心でしょうか?
  イエズス様は私達に保って欲しいとおっしゃった、その平安な心と言うのは私達が常識的に 「心は今大丈夫」 と思っているような、そんなに簡単なことではありません。平安な心の中には痛み、辛さ、心配そしてたまには怖さもあります。しかしイエズス様は 「平安な心を持って下さい」 とおっしゃいました。平安な心に必ずあるものがあります。それはイエズス様が見せて下さった生き方に対しての希望です。いろんな難しさがあってもその心の中に正しい希望があれば、私達は平安な心を保つことができます。これが復活の力です。
  皆様もう一回質問します。おそらく今皆様の頭の中にいろんな心配とか悩みがあると思います。しかし皆様の心は平安でしょうか? このメッセージをもらって、もう一回改めて新しい素晴しい生き方をしましょう。皆様に必ず覚えていただきたいことは、復活というものは十字架と離れて考えられないということです。十字架が終わって復活があるということではありません。この復活という言葉の中に十字架があります。復活を知らない十字架、それは意味がありません。この十字架を抱きしめて本物の復活になるのです。これからもいろいろ乗り越えなければならない山が待っていると思います、しかし山が無くなるようとは祈らないでください、山を乗り越えられる力を下さいと祈りましょう。それが私達が信じている復活の神秘です。
  最後に皆様、幸せになりたいでしょう? 私は幸せになりたくないという人はいないでしょう? みんな幸せになりたいですよね。唯一の秘訣を教えてあげます。良いことをして下さい。人間はやりがいを食べながら生きています。自分の持っている条件にとらわれないで下さい。良いことをやろうという気持ちがあれば良い結果が出ます。その中に幸せがあります。
  もう一回、私達はご復活おめでとうございますと挨拶を交わしましょう。
 「ご復活おめでとうございます」

                                            ありがとうございました。
 

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                         復活徹夜祭 金 大烈 神父   2008年3月22日
    
                           《ご復活、それは希望》
 ご復活おめでとうございます。(英語・スペイン語・ポルトガル語・ベトナム語・韓国語・インドネシア語・タガログ語で) 皆様、今のその笑顔を保ちながら私の説教を聞いて下さい。
  今日栄光の賛歌を歌う前に、聖週間の間祭壇上の十字架を覆っていた紫の布が取り外されました。しかし、ご復活された今もイエス様は相変わらず十字架につけられたままです。どうしてでしょうか? それについて話し合いたいです。
  使徒パウロがコリントの信徒にあてた手紙の中で 「私達が宣べ伝えているキリストの十字架は、ユダヤ人にとっては躓かせるもの、異邦人にとっては愚かなものです」 (コリント1・1・23)と書いているように、実際2000年前に十字架につけられたイエス様のことを考えてみますと、これは完全に常識に逆らう事件でした。
  ユダヤ人たちは昔から神様からの奇跡を求めていました。この方こそ待ち望んでいた救い主だと思い、心をこめて従おうとしたイエスという人物が結局十字架につけられたということは、自分たちが騙されたことになります。彼らにとってはイエス様の無能力を示すことでした。そして、異邦人たちは(ギリシャ人やローマ人等、初代キリスト教の共同体が宣教しようとしたユダヤ人以外の周辺の国の人々)いつも物事を論理的に考えて結論を出す習慣がありました。彼らの論理ではイエスの十字架の死というのは理解できない、納得できないことでした。やさしく言えば、ユダヤ人にとっては気に障るもの、異邦人にとっては筋道が通らないもの、これが十字架でした。
  ところで、私達にとってこの十字架は何でしょうか? なぜ復活祭を迎えたのに私は十字架の話をしているのでしょうか? それには訳があります。復活というものはあの十字架なしに考えることは絶対できません。そういう意味で四旬節を一生懸命過ごしましょうと何回も何回も繰り返し皆様に言ったのです。この40日間どのような心で生きてきたかによって、今日のこのミサで、具体的に皆様の心の中で復活したキリストを体験することができるかどうかが決まります。皆様よく考えて下さい。十字架というものは私達の感覚でみても常識に逆らうことです。全知全能の神、すべてのことがなんでもできる方がご自分が創った人間によって殺されたのです。 そのような無能力にも見える救い主に私達が従うのはなぜなのかという質問に対して、十二分に語ることができます。
  この十字架に真理が隠れているのです。復活とは何でしょうか? 皆様にとってどういう意味を持っているのでしょうか?
  復活は一言でいえば “希望” です。このミサを通して皆様の心の中で “希望” が生じたかどうかで復活の体験ができたかどうかが決まります。皆様お願いします。「希望を持って下さい」 何の希望でしょうか?変わってしまう希望でしょうか? いいえ、そうではなく、イエス様が教えようとした “美しい道” その道を私達も生きるという希望です。二日前に私は皆様にお願いしましたね。外面的なことではなく内面的に格好良くなりましょう。一日、一時間、一分でも意味を捜すそういう生き方をしましょうと。テレビに出ている有名な俳優や歌手を格好いいと言いますね。しかしその人達の生き方を私達は知りません。それでは格好いいとは言えません。顔というものは変わります。「変わらないものが格好いい」 そういう人になることが私達の役割です。必ずなれます。身体が不自由でも、お金がなくても、その人その人に合う素晴らしさ美しさを見せることができます。今まで自ら躓いて 「私は何もできない。この世の中は美しくない。人生はおもしろくないし、生きる意味はない」 と言っていた人が 「そうではなかった。イエス様が見せた真実の生き方が自分にもできる」 そういう希望を持てるようになるのが十字架、そして復活です。ですから復活したイエス様がそのまま十字架にかけられているのには訳があるのです。復活する前の十字架とその後の十字架はそれを見る私達の目が全く違います。復活の希望の体験ができた人にとっては、あの十字架は美しく見えます。その体験ができなかった人にとっては悲しく、愚かに見えます。「なぜ、なんで」 ということになってしまうでしょう。
 神の子であるあの方が約束した復活の生き方を見せて下さらなかったら、私達がここ(教会)にいる理由がありません。結局、信仰の道は十字架を抱きしめて復活を望む歩みです。この十字架と復活を別々にして考えるのは偽りです。十字架を負わずに 「私は復活の体験をしている」 と言うのはうそです。復活の意味もイエス様の生き方の意味もわからないことになります。
 笑顔を見せて下さい。この笑顔を持って生きましょう。背中に十字架を背負っていてもこの笑顔を忘れないで下さい。それが復活の体験です。皆様の胸の中をよくご覧になって下さい。“希望” というものが見えますか? 必ずあります。絶対譲ることのできない “希望” がそれぞれの胸の中に必ずあります。それに答えなければならない。がんばりましょう。良く生きましょう。それが復活されたイエスさまへ私達ができる一番大きいうれしいプレゼントになると思います。
 最後にもう一度挨拶させて頂きます。「ご復活おめでとうございます」
 お互いにももう一度挨拶を交わしましょう。
  「ご復活おめでとうございます」
                                            ありがとうございました。
 

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このページの先頭へ                                        聖金曜日(主の受難) 谷  大二 司教   2008年3月21日(金)
    
                               《救いの十字架》
  福音が読まれる時、私達は額と口と胸に小さな十字架を刻みます。これは2世記まで遡る一番古い十字架の印です。当時はまだ迫害があり大きな十字架をきるとすぐ捕まってしまうような時代でした。十字架に架けられたのはイエス様だけではなく色々な殉教者達が十字架に架けられました。特にアジアの日本、韓国、中国、ベトナムは近代において多くの殉教者を出した国です。ベトナムでは1975年、つい30年前にも殉教者を出しています。
  今年ペトロ岐部と187殉教者の列福式が12月24日に行われます。ちょうど400年位前の殉教者です。当時、殉教者は何人位いたでしょうか? 日本だけで2万人の殉教者が出ました。フランシスコ・ザビエルが1549年日本に来て以来60年、日本での信者数は40万人と言われています。ですから20人の信者の内1人が殉教している割合になります。今日ここに160人の人がいるとすると8人が殉教することになります。もしここで8人選ばれるとしたら、進んで手を挙げる人はいるでしょうか。これは個人の信仰というよりも当時の共同体の信仰がそれほどしっかりしていたからです。信仰がしっかりしていた、だから殉教者が出せたということです。もちろん殉教のない社会の方が良いわけですが、殉教者を出すということは共同体の強い信仰があったからです。
  浦和の司教館の近くのお寺で30年前に小さなマリア像が発見されました。それが発見されてから色々と歴史が調べられ、川口から2人殉教者を出していることが分かりました。3人の家族で、奥さんはルフイーナという日本人、ご主人はゴンシチという朝鮮半島からの渡来人、そしてその子供の3才のマサユメ。この3人がキリスト教を信じていることが知れて、北町奉行に連れて行かれました。捉えられている時に寒松(カンマツ)というお坊さん(有名な人で、足利学校の校長をした人)が救出を願いますが、結局ルフイーナだけ
が助け出され、ゴンシチとマサユメは処刑されました。ペトロ岐部と187殉教者の中にも3才の男の子がいます。3才の子供に殉教出来るのでしょうか。
  この間、ある教会で子供達を集めて説教した時、「この世の王様と神様とどっちが偉いか?」 と聞きました。本当は 「この世の権威と神の権威とどちらが上か?」 と聞きたかったのですが・・・。皆 「神様!」と大きな声で答えました。一番小さな子が3才。3才の子供でも神様の権威の方が上である、神様の方が偉いとはっきりと信仰告白が出来ます。
 3才のマサユメは信仰を教えてくれたお父さんに従って連れて行かれ、十字架に付けられ焼かれました。ですから子供だからと言ってバカにしてはいません。子供は本当に純粋な信仰を持って歩んでいるのです。その子供を惑わせずに、まっすぐに歩ませるのが親の役目です。いずれにせよ、3才の殉教者は余りにも不憫な気がします。皆さん、自分の子供が十字架につけられそうになったらどうしますか。多分、私だったら 「この子には何の罪も無い、許してあげてくれ」 と言い、その場をしのいで何とか子供を助けようとするでしょう。ゴシンチは自分が十字架に架けられる姿を見せて、子供に信仰を伝えようとし、マサユメはその父の姿を見て、その後について行きました。当時、見た目にはこの世の権威に負けて十字架に架けられ、殺された思想犯でした。しかし今、我々はその信仰を “栄光の殉教” として受けとめています。
  当時の殉教者の中には、イエス様よりもっと悲惨な目にあって亡くなった人もいました。“パッション” という映画はイエス様の悲惨な受難を描いたものですが、187人の中にいたハラモンドという人はもっと悲惨な生涯を送った人です。関東で宣教活動をしていた人ですが、その人は両手両足を全て切り取られてしまいました。それでも地下に潜って宣教活動を続け、最後には殉教しました。イエス様の十字架と殉教者達の十字架との比較は出来ませんが、悲惨さだけ見るともっと悲惨な殉教もあったと言うことです。殉教者達は十字架の上で悲惨な殉教を遂げ、栄光の殉教へ入りました。この世での最期を信仰における勝利へと変えていったのです。
  イエス様の十字架が殉教者のそれといくつか違う点があります。人はイエス様を十字架に架ける、人間が神を殺すとう最大の罪を犯しました。しかし、それは神様が人類のために最愛の子イエス様を差し出した、その愛が最も良く現れている瞬間でした。人類が最大の罪を犯した時、神様が最大の救いを開くその瞬間でした。その十字架が全人類の救いの印となり、救いへの道を開け、神様の愛がもっと美しく現れた瞬間でもありました。それは殉教者の十字架においても神の愛が表されたものです。
  私達は十字架を見ることはしょっちゅうあります。何の意識もせず食事の時、十字を切ります。時々そのことを思い出すこともありますが、今日は特にこれから行われる十字架の崇敬の時には、私達人類が犯した罪を謝罪し、神様の愛と救いに心から感謝出来れば良いと思います。そして殉教者達の血が無駄にならない様に、私達が今この世の中でどのように殉教を出さない社会を作って行くか、宗教においての弾圧、特にキリスト教は未だに中国やベトナムにおいては弾圧を受け、その中で若しんでいる人もいます。日本もいつそうなるか分かりません。そういう時代が来ないように、宗教の自由が保障される社会を私達自身が守って行くことが必要だと感じます。
 イエス・キリストの十字架、殉教者の十字架、そして皆さんの背負っていらっしゃる十字架。今日この十字架の前で思い起こしましょう。
 

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このページの先頭へ                                   聖木曜日(主の晩餐) 金 大烈 神父   2008年3月20日(木)
    
                     《ご聖体を頂く意味は・・・》
  お説教を始める前に、まず、今晩このミサに何ヵ国の方々が与っているか尋ねてみましょう。日本人? ブラジル? ペルー? フィリピン? ベトナム? インドネシア? そして韓国?。 それ以外の方は? メキシコ? ありがとうございました。
  とても意味のある《主の晩餐のミサ》になっているのではないかと思います。これも私達共同体が神様から頂いた大きな恵の一つだと思います。どの小教区やどの国においても、この様にたくさんの国の方々が同じカトリックの信仰によって集まって、神様を称えながら賛美することが出来る場所はこの世の中にどれ位あるでしょう。もちろんローマはありますね。それ以外は? もしかするとこの太田は5つの指に入るかも知れません。ここは素晴らしい恵で包まれている共同体だと思います。
 さあ、今日は2つのことを申し上げたいと思います。
イエス様は自分の運命、与えられたこの世での終わりが近づいていることを感じました。そして最後に自分に従って来ていた弟子達を集め、“最後の行い” を実行します。それは何でしたか? “食卓を囲むこと” でした。皆で食卓を囲んで食事をすることでした。そしてその食卓で行われたのは何でしょうか? そこで定められたものは何でしょうか? 私達カトリック共同体の “心臓”、“ハート” の様なものです。それは何ですか? 今日、第2朗読で読まれた内容です。“聖体の秘蹟” です。“聖体の秘蹟” が定められた日です。イエス様は聖体の秘蹟を定めて、その後何をなさったのですか? 弟子達の足を洗って下さったのです。この2つのことを少し黙想してみましょう。
  私達がご聖体を頂く一番大きな意味は何でしょうか。何故毎回ミサでご聖体を頂くのでしょうか。何故自分に罪があると感じたら告解室に入って許しの秘蹟を受けて、ご聖体を頂くのでしょうか。その意味は何でしょうか。一番大きな意味は? 覚えておきましょう。一つはご聖体を頂く私達それぞれが具体的に、直接的にイエス様との “出会い” を求めるからです。それはイエス様自身がおっしゃったことです。「これは私の体である」 と。多くの方がこの様な意識を持ってご聖体を頂いていることは存じていますが、もっと具体的に感じて頂きたい。「キリストの体」 という司祭の声を聞く前に、“震える心” で待っていて欲しいのです。震えながらご聖体を頂いた記憶はいつの頃のものだったでしょうか。そして頂いて感謝で心が一杯になり、自分も知らないうちに涙が自然に流れ出た、その記憶は今までの人生の中で何回あったでしょうか。もし“ご聖体”の姿ではなく、イエス様自身がこの祭壇の前に立たれて 「これは私の体です、食べなさい」 と言われたら、私達は声さえも出せないと思います。第一の目的、意味はイエス様と “一つになる体験” です。これは論理的には絶対説明出来ません。ただ体で、胸で、霊的なことによって体験するものです。その様に “イエス様の体” だと固く信じて “イエス様” を頂いたら、その後私達は何をするべきでしょうか。それが第二の意味です。それは何でしょうか? 
  「これは私の体である。これを食べなさい」 ということは 「私(イエス様)が自分の体を裂いてあなた方の口に入れたのです。ですからあなた方もあなた方の体を裂いて必要な人に与えなさい」 という意味です。このご聖堂の中でご聖体を頂き、聖なる姿となり聖なる体験が出来ても、後ろのドアから出た後は、この社会の人々と全く同じであったらそれは、何よりもイエス様をもう一度殺すことになるのです。ご聖体はある意味において、ものすごく負担になるものです。何故なら自分が小さな動く “聖櫃(ひつ)” となるからです。自分自身がイエス様のおられる “聖堂” になるのです。もはや自分だけの体ではありません。だから私が外に出て、出会う全ての人々に出来るだけ “イエス様の体” を渡さなければならないのです。それが私達死ぬまでの召命ではないでしょうか。全ての信者に与えられ、ただ無意識のうちに頂くものでは絶対にありません。ご聖体を頂く前に必ず 「本当に私は相応しい心か」 「この様な状態で司祭の前に手をのばし、ご聖体を手に取り、口に入れても良いのだろうか」 といつも自問し、意識すべきだと思います。
  時代は少しずつ変わりました。昔はこの様なことを強く強調しましたが、今では日常的な当然のこととして、司祭の手から渡されたご聖体をすぐ取って頂く様になっています。しかし時代がどんなに変わっても、環境がどんなに変わっても変わらないものが必ずあります。それを私達は一般的に “真理” と言います。“真理” である “イエス様の体” を私達が頂くために、いつも意識して準備された心で頂かなくてはならないと私は信じます。
  今日は主の晩餐です。何故あの方は “最後の行い” を弟子達と食卓で交わることにしたのでしょうか。33年間イエス様が見せようとした全てのものが集約されていたもの、それが “食卓” です。信仰的に言いますとその食卓はキリストとの分かち合い、交わりを意味します。さあ、主の晩餐のミサに与っている私達、もう一度ご聖体について良く考えてみましょう。
 2番目、皆様と分かち合いたいと思ったのは次の様なことです。“良く生きている” 人々の姿を見る時、私たちはうらやましいと思います。“良く生きている” とはどういうことを言うのでしょう。体が丈夫なこと?お金をたくさんもうける人々? テレビスターの様な有名人になること? そういうことを意味していません。私が申し上げようとする “良く生きている人” というのは、誰が見ても 「あの人は格好良いな、あの人は素晴らしい生き方をしているな」 と悟らせてくれる人々を意味します。全ての人々は宗教、信仰を持っているかどうかに係わらず、その人が意味深い生き方をしていれば、必ずその人に引っ張られます。「私もあの様な生き方がしたい、何故私はこの様な生き方をしていたのか」 と色々な複雑な思いがします。
  皆様にお願いしたいことはこれです。私達に与えられたこの一日、“意味” を作りましょう。もっと易しく言いますと “意味があるもの” を求めましょう。残された人生を格好良く生きましょう。自分が力強く握っているこのものが本当に自分を格好良くするものかどうか、意味がある人生を過ごすために邪魔になるものかどうかを考えましょう。結局、意識することです。 私は皆様全員が “格好良い” と言われて欲しいのです。“格好良いこと” それは皮のことではありません。中身のことです。“あの人は格好良い” と言われる様なことがお互いに出来、その様な人生を送れれば、私達がする全てのことがイエス様のみ心に適うものになると信じます。
  皆様よく覚えて下さい。今、神様は皆様が気付かない何かの “賜(たまもの)” についていつも見ていらっしゃいます。 皆様を一番格好良く出来るその賜を持っているのを良く知っていらっしゃいます。「何故私が与えたその賜を活かせないのか」 その様なもどかしい心で皆様を見ていらっしゃると私は信じます。
  今日、主の晩餐、そして色々な国の12人の方々の足を洗います。当時のイスラエル、ユダヤ人に取って足が意味するものは “汚さ” でした。一番汚いとされる足を他の人に触らせることはありませんでした。足は体の中で一番呪われた所でした。ですからイエス様がその足を選んだのです。私が本当にへりくだる心、自分を救ってくれるその心をもって、まず自分の足を洗いましょう。そして相手の足を洗おうとする意味のある生き方を求めましょう。        
                                            ありがとうございました。
 

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このページの先頭へ                                          受難の主日(枝の主日) 金 大烈 神父   2008年3月16日
    
                     《「ホザンナ」 と叫ぶ心、「十字架につけろ」 と叫ぶ心》
 お説教の前に改めて皆様にお願いしたいことがあります。この頃、ミサの前の落ち着きがまたなくなっているように感じます。お知らせが後ろに置いてあったためか、お聖堂に入られてからもお互いに挨拶を交わしたり、お喋りをしたりする姿が見られます。ミサの始まる時間前までには来て、心を整え、心の準備をしなければなりません。聖堂は祈る場所、自分だけでなく他の人も祈っている場所です。
  ですからこの場所は “神様との出会いがちゃんと出来る場所” になって欲しいと願っています。またお子さんを連れたお母さん方にもお願いがあります。子供たちが大きな声を出すのは自然なことですが、ミサの最中、もし自分のお子さんが泣いたりして、それが他の人の邪魔になると感じたら、そっと外に連れて行って落ち着いたら戻って来て下さい。その様な配慮を私達は互いにすべきだと思います。日本語の分からない方にはその国の代表の方が伝えて下さい。
  ミサは私達にとって大事な、そして必要なものです。ミサを捧げる司祭や待者の子供たち、そして皆様と心を合わせ、心を一つにしてこそ、ミサが素晴らしいものになると思います。もう一度お願い致します。
  さあ、今日はミサの前に外で私達は何をしましたか? “枝の行列” をしました。
その行列する前に私が読んだ福音は 「エルサレムにご自分の十字架を負う為に入られるイエス様を、多くの人々が大声で手を振りながら歓迎する姿」 でしたよね。そしてお聖堂の中に入って、第1朗読第2朗読と読みました。そして受難記を読みました。その中身は何でしたか?
  外では私達は 「ホザンナ、ホザンナ、ダビデの子、私達の王」 と歓喜の声を挙げましたが、このお聖堂の中では 「十字架につけろ、十字架につけろ」 と叫んだのです。何故今日、「ホザンナ、ホザンナ」 と言った同じ口で 「十字架につけろ」 と言わせるように典礼がつくられたのでしょうか。理由があります。
  エルサレムに入られるイエス様を、本当の喜びを持って 「ホザンナ、私達の王」 と叫んだ同じ口で 「十字架につけろ、殺せ」 と言った人々こそがおかしいと思いがちですが、これはユダヤ人のことを言っているのではありません。
  私達の心の中に “両面性”(二面性)が生きています。「ホザンナ」 叫ぶ心がここにあります。「殺せ、十字架につけろ」 という心も同じくここにあります。結局私達はこの人生の中で、求めなくてはならない、取り組まなくてはならない、頑張らなければならないのは 「ホザンナ」 が 「殺せ」 と叫ぶ心に負けないようにすることです。それが信仰の歩みです。
  さあ、この胸の中には怒りもあるし、慈しみもあります。どちらが皆様を救うのでしょうか。同じ口で “人を殺すこと” も “人を生かすこと” も出来ます。何でも出来ます。それを決めることは皆様にかかっています。今日 “枝の主日・枝の日曜日” に私達が振り返ってみなければならないのは、私達の中にある “良いもの” が同じく私達の中にある “悪いもの” に勝つように力を注いで来たのかという自問です。それを考えることです。これが出来なければ、聖木曜日、聖金曜日、復活徹夜祭、そして復活祭の意味が薄くなってしまいます。そのためには赦しの秘跡も必要です。
  皆様、私達は “聖週間” に入っています。四旬節中、あまり上手く過ごさなかった方々は特に、この聖週間だけでも、もっときれいな心を持つように、もっと信仰的な体験が出来るよう心を開けるように、そしてイエス様が十字架につけられる時、一緒にその痛みに与れるよう心を尽くして欲しいと思います。
  お願いがあります。聖木曜日聖金曜日復活徹夜祭、そして復活祭にどの位の方が与って下さるかわかりませんが、時間的に許されれば、時間的に少し無理をしても、出来るだけミサに来て頂きたいと思います。明日からの月曜日、火曜日、水曜日、そして聖木曜日聖金曜日復活徹夜祭、復活祭」、心を少しずつきれいにして、具体的に “主の復活” を体験して頂きたいと思います。
  私達の心には死ぬまで、“きれいな心” そして “その反対の心” があります。きれいな心が必ず勝つように。その為にはイエス様の導きと慈しみが必要です。そのためには私達が意識せずに自然に空気を吸い込む様に、祈りの生活をきちんと身に付けなくてはなりません。
  最後に今、皆様は “枝” をお持ちですよね。この頃、色々な家庭を訪問していますが、私がその家庭に入ってまず見るのは、十字架がどこにかけられているかです。しかし仏壇はすぐ目についても、十字架がまず目に入ることが少ない。立派な物でなくても、十字架であることが分かる物をかけて下さい。十字架は隠すものではありません。他の方が来ても 「この方はカトリック信者だ」 すぐ気が付くように、誇りとして一番目立つ所の壁にかけて下さい。それを見る子供たちは成長しても必ずその “十字架” が残ります。これは信仰の一つの教育です。
  今持っているこの枝を十字架につけて(十字架と一緒にして)1年間飾ります。“主の受難の日曜日” のことをこの枝を見ていつも思い返せるようにします。そして来年の灰の水曜日が来る頃には、この枝は緑から茶色へと変わり完全に枯れます。それを教会に持って来て焼き灰を作ります。もし、十字架がない方は是非求めて下さい。お金がない方は私が準備します。そして是非一番目立つ所にかけて下さい。
子供たちがよく見るところにかけて下さい。この十字架は、私達の心そのものを表すものです。
      
                                            ありがとうございました。
 

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このページの先頭へ                                 四旬節第5主日 金 大烈 神父   2008年3月9日
    
                                   《ある司祭の話》
   おはようございます、お元気ですか?
   自分の同級生であったある司祭の話から始めたいです。ある日、その友自身が体験した信仰の体験について聞く機会がありました。その時聞いた話が、今ちょうど皆様に必要な話じゃないかと思ったので、ご紹介させて頂きます。その日、彼は日に涙を流しながら、「私は、今振り返ってみると、ものすごく難しい生き方、司祭の道を歩んできたんじやないかと思う」 と言いました。どういうことかと開いてみたら、彼はこのように言い続けました。
  「自分は純粋な心で司祭になりたくて神学校に入り、一生懸命勉強し、いろいろな教えに従っていたけど、いつも楽しくなかった。何か自分にも説明ができない怒りが自分の中に常にあった。その理由もわからなかった。一生懸命に信者の方々に心をこめて、司祭としてするべき全てのものを見せながら頑張ってきたけど、心の中には楽しさとか喜びというものがなかった。その理由が全然わからなかった。たまに襲ってくる孤独感から逃げようともっと熱心に勉強をしたり、司牧に集中したりしたけれど、結局この心の中にはまったく説明が出来ない辛さがあった。そして、今まで歩まなくてはいけない宿命だと思った司祭職についても、『なぜ私はこの道を選んだのか、これが正しい選びなのか、若しかすると私は間違えて今までやってきたかもしれない』 という迷いが続いた」
  このような迷いが続くある日、ある親しい先輩司祭が、聖地巡礼に行ってみたらどうかというお誘いがあったそうです。そして、子供の時から愛してきた聖母の聖地を思い出し、1回も行ったことのないメジュゴリエを選んだそうです。
  その友はこのように語りました。「一人で、ただ普通の信者の姿で、メジュゴリエの巡礼の客と一緒に係りの人が導く通りに従った。ある晩、ロザリオの祈りを捧げる時間があった。普通には5連(1環)捧げるが、ロザリオ30連(6環〉を両手を挙げたまま捧げる時間だった。最後までついていけるかと心配もあったが、とにかくやってみようと思った。肩も手も指も痛くなり、マリア様に自分の願いを言う集中力を失い、祈りながらもいろんなことが頭の中に巡ってきた」
  子供の時からのいろんな傷が浮かびあがったそうです。家庭は貧しく、お金に余裕がない家だったそうで
す。頭もそんなにいい方じゃなく、他の子よりも何倍も勉強しないとついていけない位だったそうです。神学校に入る入るのもすごく苦しく、神学校の入学準備もいろんな恩人から助けをもらって、服を買ったりして入ったみたいです。神学校に入ってからも、自分の小遣いがなく、信者の方々が静かに自分の袋に入れてくれたそうです。そして神父になってからは真剣にやっても、相手はそれを理解してくれなかった。相手のために全力尽くして、心を表そうとしても誤解されて責められた時も結構あったみたいです。そういう辛さがだんだん大きくなって、彼の心を痛めたことが分かることになったそうです。それで、不平を言い始めたそうです。
 「神様! なぜ私はこのような人生を送らなければならないのですか? なぜ他の人と同じ条件であなたの愛される息子として司祭職に務めることが出来ないのですか?」 文句ばっかり口から出てしまったそうです。その時、不思議なことが起こったそうです。30連が全部終わったところ、自分でもわからない涙が止まらずに出てきて、予想もしなかった言葉が口から出てきたそうです。それは、「私は罪びとです」 という言葉だそうです。周りに人がいるのも構わずに、泣きじゃくりながら 「私は罪びとです。私は罪びとです。赦して下さい」 という半分は叫びのような言葉が何度も何度も口から出てしまったのです。「自分は今まで一回も罪がないと、いつも誰かのせいだと思ってきた。しかし自分が全然思わなかった言葉が出て来たので自分も本当に驚いた」  そして彼が最後に言ったのは、「本当に、そのときから祈るときはいっも幸せになる。祈りらしい祈りが自然に出てくる」 という話でした。
 皆様に質問します.赦しの秘跡を受けてから1年にならなかった方は手を挙げて下さいませんか。それ以外の方々、私は責めようとする話ではありません。真の悔い改めということは、誰かに言われて、「私、本当に間違えたかな? 本当に悪かったかな?」 ということによって出来るものではないし、それは意味もありません。真のことは自ら、奥から自分の知らない何かが出てくるのです。それによって 「本当に私は悪かった。私はこんなに愛されたのに、いっも裏切り者だった」 という告白が自然に出なければ、真の赦しの秘跡に与ることは無理ではないかと思います。
 皆様、どう思いますか? 「私は罪びとです」 という心が自然に奥から出てくるためには、何が必要ですか? 厳しく申し上げます。この悔い改めの心も神様が許して下さらなかったら出てきません。そうしたらどうします? 私達が出来るのはなんですか? 悔い改める心さえ神様が許して下さらなかったら出来ないと言えばどうしたらいいんでしょうか? 答えます。この前の待降節の黙想会で皆様に話しました。まず、祈る時間をとって下さい。何にも出来なくても、祈りの時間をとって、神様の前に立ってみてください。そのとき何を言うべきか、何をすればいいか迷わなくてもいいです。ただイエス様の前に立ってみて頂きたいんです。そのとき体験したことのない働きが、神様と皆様の間で起きます。そして本当に私達が悔い改めるところがあれば、必ず悟らせてくださいます。自然に神様から許しをもらわなければならないという心が自然に出てきます。これが祈りの力です.
 皆様、四旬節がそんなに残っていないのですが、お勧めしたいことが一つあります。悔い改めの意味について、自分の愚かさによって間違えたことについて、隠したい自分の傷についてよく黙想してみて下さい。そして出来れば、この四旬節が終わる前に赦しの秘跡を受けて下さい。率直に言います。赦しの秘跡を受けなかったら、私達は喜びの復活祭を迎えることができません。確信します。
 時間がなくてもわざわざ自分のことを思い出してみて下さい.それが四旬飾の意味ではないでしょうか?私達は幸せにならなくてはなりません。いつもご聖体をいただいても、心で何の喜びも感じていないなら、そしてご聖体をいただいても全く同じだったら、それはイエス様のすばらしい力を無視してしまうことです.イエス様の御心の美しさ、喜び全てが自分のものになるためには、自分の心のドアーを開けなくてはなりません。
                                            ありがとうございました。
 

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このページの先頭へ                                 四旬節第4主日 盧 煕喆 神父   2008年3月2日
    
                    《黙想会の講話・復活祭(四旬節)を迎えるための準備》
  あともう少し、3週間程でイエス様の復活を祝います。しかし復活が私達にとってどういう意味か、どういう意味として私達が受け入れるかが重要なテーマとなります。カトリック信者、キリスト教信者とは一言でどういう意味だと思いますか? キリストを信じる者を意味しますよね。しかし何で私達はイエス・キリストを信じ
ているのか。何故信者になってイエス様と共にこの人生を歩もうとしているか。この世には仏教、イスラム教等たくさんの宗教がありますが、その中で何故私達はカトリックを選んだのか。もちろん自分の意志ではなく、幼児洗礼を受けたからという人もいるでしょう。根本的に何故私達がイエス様を信じているかということは重要なテーマですし、私達の信仰の基礎でならなければならないと思います。
 キリスト教は何かということを一言で言うと 「イエス・キリストがその死と復活を持って、私達に永遠の命を与えて下さった」 ということが大きなテーマです。イエス・キリストがどういう人かによって私達の信仰生活に意味があると思います。
 イエス・キリストが他の有名な人々と異なるのは、秘蹟を起こす力、また復活されたから信じるのではないでしょうか。教会に来てお祈りするとそのことを神様がかなえて下さるという意味もありますが、もっと大切なのはイエス・キリストの復活によって、私達も永遠の命を得られるという確信、希望があるから私達はイエス・キリストを信じるのです。
 イエス・キリストという言葉も一つの言葉ではないですね。“イエス” と “キリスト” という二つの言葉が一つになっています。“イエス” は人の名前で、当時はありふれた名前でした。旧約時代のモーゼの後継者 “ヨシュア” から来ていますので、当時は “ヨシュア” の様になって欲しいと名付けられた名前でした。では “キリスト” はどういう意味があるのでしょうか。“救い主” です。ヘブライ語のメシアから来ています。ですからイエス・キリストとは “イエス” という普通の人間が救い主である “キリスト” になったとういうことを意味しています。私達はお祈りする時、いつも最後に 「私達の主イエス・キリストによって」 と結びます。イエス・キリストが一つの言葉であって 「イエス様こそキリストだ。イエス様こそ私達を救って下さる、永遠の命を与えて下さる存在だ」 と私達は祈る時に思い、誓います。しかし何故イエス様がキリストになるか。それは立派な人だから、奇跡を起こしたからイエス様はキリストだと思う訳ではなく、イエス様が死にうち勝って復活されたから、十字架につけられ死に葬られても神様の力によって復活されたから、私達にとってイエス様がキリストになるのです。
 その復活という意味は普通の、蘇生、蘇りとは全く違います。聖書にもラザロをイエス様が蘇らせるという場面がありますが、“復活” という言葉は使いません。もちろんイエス様にも蘇るという言葉を使いますが “復活” とは違います。復活とはラザロの様に死者から蘇生してある程度生きてまた死ぬことではなくて、蘇ることによって永遠に生きることです。復活とは私達の想像を遥かに超える言葉だと思います。そして単なる 「四旬節が終われば復活になる」 という意味ではなく、私達がこれから “生きられる” 様な生活としての復活をきちんと考えなければなりません。
 私達は喜びの復活を迎えるために色々な準備をします。今日、この太田教会では復活を迎えるための黙想を計画して私が招かれました。この黙想や赦しの秘跡を皆様は受けておられますが、その黙想や赦しの秘跡が単なる “年間行事” になるのは悲しいことです。他の教会でも四旬節や復活節には黙想会等が催され、素晴らしい話を聞くことが出来ます。しかしその話を聞いて 「あー、いい話だった」 と終わってしまうと本当の意味を失ってしまいます。復活の喜びを感じるための私達の心の準備が必要です。妊娠した母親は生まれて来る子供のために色々な準備をします。時にはタバコを止めたり、ご主人となるべく言い争いをしない様にしたり、良い音楽を聴いたりと女性が母親になるための努力は色々あります。それと同じ様に、“復活された” イエス様を迎えるための心の準備は大切だと思います。それで皆様は平日や日曜日のミサの前に赦しの秘跡を受けています。しかし赦しの秘跡を考える時、「告解する」「告白する」という意味が強いのではないでしょうか。“許し” と “告白”は違います。“告白” は自分が犯した罪に対して一方的に言い表すということです。しかし教会で設けた “赦しの秘跡” は、「自分は悪いことをしました。反省します」 と一方的に伝えるのではなく、それを告白する人とそれを許してくれる神様、司祭がその役割をしていますが、お互いに理解し合って、人が新しく生まれ変わる様な意味として赦しの秘跡があります。しかし大半の人々が自分の犯した罪を司祭の前で言わなければならないという圧迫感を感じるから、なかなか赦しの秘跡を受けられないのではないかと思います。だから赦しの秘跡は、自分の過ちを言い表すということだけではなく、必ずイエス様が司祭を通して許して下さるという確信が前提にならないと許しの本当の意味がなくなるのではないでしょうか。ですから、私達が赦しの秘跡を受ける時、「いやだな、自分のことをどう見られるのか」 と思ってしまうこともありますが、必ず許して下さるという確信をまず持つことが必要です。しかしその赦しの秘跡を受ける時には、自分の方からの準備が必要です。
 皆さん、朝何を食べましたか? パン? ごはん? 断食? 皆さん、今朝のことだから覚えていらっしゃるでしょう。昨日は何を食べましたか? 先週の月曜日は? 特別な行事などがあれば覚えていますが・・・ 1ヶ月前となるとどなたも覚えてはいらっしやらないでしょう。それは当たり前ですし、忘れないと困ることにもなります。
 もし、イヤなことを聞き、それを忘れないと眠れなくなってしまいます。だから忘れた方が良いこともあります。私達はすぐ忘れてしまう人間です。告解をするためには、毎日告解をするのであれば別ですが、大体の方が年に1回~2回ですか? そうすると1年前から今日まで自分が一体何をしたか、どの様な悪いことをしたか、どの様な良いことをしたかということを反省し、考えないと告白することが思いあたらないですよね。告解しようという気持ちを持ったなら、反省というよりはまず1年を振り返つて、どういうことが起こったか、どういうことをしたか等を振り返る時間が必要だと思います。その様な反省をする時間がないから告白する時も 「特に罪はないです」 ということになってしまいます。それでも神様は許して下さいます。それは本当ですよ。告解をしようとしてもまず自分の心がすっきりしないと、いくら司祭を通して許してもらっても心がきれいにならない。すっきりしない。すっきりするためには、まず自分がどの様なことを行ったかを考えるべきです。もちろん人から傷つけられたことはすぐに思い出すことが出来ます。しかし人を傷つけたことはあまり思い浮かんで来ないものです。告解を受ける前の準備としても10分、20分深く自分の生活を振り返って考える必要があります。その深く考えるということは、悪いことばかりではなく、その中での嬉しいこと、幸せだったこと、全部を考えながら 「あの時も神様が一緒にいて下さった」 と思い返すことが大切です。
 イエズス会を皆様ご存じでしょう。私達の神様の名前を付けた修道会です。イエスという名前を付けたということは、それだけイエス様に対する確信、イエス様に対する信仰が強かったということです。イエズス会は論理的な部分においても教会の教えをきちんと守っています。その修道生活を少し考えてみると、お祈りより自分を反省する時間をしっかり守っています。修道院ですから朝の祈りから寝る前の祈りまでありますが、その祈りには参加しなくても大きな問題にはなりません。しかし1日10分、15分の自分を反省する時間は必ず取らなければなりません。お祈りは私達にとって一番大切なものですが、イエズス会ではお祈りより反省する時間を守らなければなりません。何故お祈りより反省することが大切か。お祈りはもちろん私達と神様が会話する時間だと思いますが、人間が成長して行くためには、やはり自分を深く見つめ反省して行くことが優先だと考えるので、自分の1日を振り返る様な時間を取ることを勧めています。
  私達が祈る時、自分の望みや他の人が悩んでいることを思い返します。それはそれで大切なことですが、私達は自分のことを振り返ることがなければ成長して行くことが出来ません。その一環として赦しの秘跡があります。ただ許してもらえば良いということではなくて、赦しの秘跡を受けるために自分が成長して行く、それがないと何度赦しの秘跡を受けても心は全然変わりません。ですから、赦しの秘跡を受けるためには、まず心の準備をする必要があると思います。そしてその準備に加えて、今度は神様が 「私達の心を癒して下さる」 ということを信じることです。ただ許してもらう、何か悪いことをしたからそれを神様に許して頂く、きれいにして頂くことに留まるのではなく、今度は自分の心がきれいになって 「イエス様に似て生きること」 ができる様な者になれるということを確信する必要があります。
 ルカ福音書の中の 「放蕩息子」 の話をご存じでしょう。2人の子供のうち、弟は貰った父親の財産を使い果たし、ぼろぼろの状態で父親に謝ろうと思い帰って来ます。その息子を父親が許すという話です。この話は “放蕩息子” に焦点が当てられているようですが、しかしイエス様がこのたとえ話をなさったのは放蕩息子のことではなく、慈しみ深い父親のことを説明するためでした。何故かと言うとイエス様は罪人だと言われている人々と一緒に食事をしましたが、ファリサイ派の人達が 「汚れた者と一緒に食事をすると自分まで汚れる」 と考えていたからこの話をしました。ぼろぼろになった息子が、自分の過ちに気付き、父の元に帰った時、それを見つけたのは父親でした。「まだ遠く離れていたのに父は彼を見つけて、哀れに思い走り寄って首を抱き接吻しました」 と聖書にあります。普通に考えれば、自分の子供だとはいえ許せるものではありません。しかし 「まだ遠く離れていたのに」 とは、いつ帰って来るのだろうかと心配して、いつも待っていたということです。「もう子供ではない。帰っても許さない」 と思っていたら、外で待つことはありません。でもその子を待って外にいたから父親が子供を見つけたのです。“遠く離れた” ということはある程度距離があったと思います。たぶん息子は家を離れた時はお金があったから、着ている服も豪華な物だったでしょうが、戻って来た時は物乞いの様な服装でした。その姿を父が見たとしても、それが自分の子供であると思えない姿であったと思います。遠い所にいて、服装も変わっていても父が先に見つけたということは 「いつか息子は戻って来る」 と信じ、深い愛情を持って待っていたからです。「父は彼を見つけて哀れに思い、走り寄った」 のです! ただ子供が来るのを待っていたのではなく父から息子に走り寄ったのです。何歳かは分かりませんが、子供が帰って来たこと、自分の前に現れたということだけでも本当にうれしくて走って行ったのです。
 だから私達が神様に自分が過ちを犯したことを告白するということは、私達が告白する前から、神様は私達のことを知っているのです。ただ私達が心を開ければ、すぐそれに対して恵を与えて下さるという存在が神様なのです。だから私達が告白する時、私達より私達を知っておられる神様がいらっしゃることを考えれば、もっと気持ちを楽にして赦しの秘跡を受けることが出来るのではないでしょうか。それでも 「罪はないよ」 と思う方もまだ大勢いらっしゃると思います。特に日本人の場合はなるべく相手に迷惑をかけないよう生活をしているので大きな過ちも少ないと思います。
 赦しの秘跡を “罪” という観点で考えると、十戒にあるような大罪を犯す方はいないでしょう。しかし “自分の心のきれいさ” という観点で、赦しの秘跡を受けるのが良いと思います。“罪” がないから赦しの秘跡を受けなくても良いと言うのではなく、本当に自分の心が穏やかになっているか、安らいでいるかと言うことを考えてみれば、穏やかな気持ちで過ごしている方は少ないと思います。時にはイヤな気持ち、時には不安な気持ちを持っているから、それを告白して神様から恵を頂く気持ちが必要です。
 イエス様も聖書によると一度だけ感情を荒げたところがあります。神殿の中で物を売ってお金を儲ける人に対してでした。その時イエス様が怒ったことと私達が怒ることは違います。私達が怒るとその感情はずっと残ってしまいます。怒ったことで心が安定する人は一人もいません。子供を叱ってもその後、心がすっきりしません。
 心がきれいになるための赦しの秘跡が必要です。ですから赦しの秘跡を受ける時は、“過ち” ばかりに捕らわれず、自分が今どういうことで苦しんでいるか等を言っても良いと思います。その時、司祭と一緒に話し合い、理解してもらえれば、完全には癒されなくても神様の恵は感じることが出来ると思います。むしろ神様が完全に癒して下さったとしても、私達の心が完全に成長していないから 「完全に許してもらえなかった」 という気持ちになるのかも知れません。神様の恵は完全ですから、出来るだけその恵を思い起こせる様に努力しなくてはなりません。
 私は先週赦しの秘跡を受けました。その時とても悩みました。いつも心に引っ掛かっていたことですし、告解したいと思いましたが、司祭としてどの様に見られるか、特に知り合いの司祭に自分が犯した罪を告白するのはとても勇気のいることでした。しかしそうしないと自分がすっきりしないから、耐えられないから、その神父様がどの様に思ってもかまわない、神様から許してもらうと言う心だけで赦しの秘跡を受けました。受けた後は本当に心がすっきりしました。以前は 「ここまで言ったから、神様も分かってくれるだろう」 とその過ちの核心に触れること避けていたので、赦しの秘跡を受けた後もやはり心に引っかかりが残っていました。でも全てを神様の前に出して始めて 「神様は許して下さった」 という確信を得たから、もう二度と同じ過ちは犯さないという自信が生まれたのです。ですから、赦しの秘跡を受ける前には、自分の心を全部開こうという気持ちにならないと赦しの秘跡を受けても心が穏やかにならないのです。
 そして、赦しの秘跡を受ける理由は “回心” です。以前は “改心” という文字を使っていました。何が違うのでしょうか。“改める” という方が分かりやすいですが、私達が “回心” するということは、心を改めるということ、これから悪いことをしないで善を行うということだけではないのです。昨日の福音の中でファリサイ派の人と徴税人が神殿に行って祈ることが書かれていました。フアリサイ派の人は 「神様のお陰で私は罪犯していません。週2回断食をしています。収入の多くを神様に捧げています」 と祈りましたが、徴税人は神殿に向かって祈ることさえはばかり、「罪人である私を哀れんで下さい」 と祈ったのです。そして神様から許してもらったのは、罪ばかり犯しているとされる徴税人であると教えます。何故? ファリサイ派の人の様に私達の尺度の中で、良いことをしたか、悪いことをしたかということではなく、私達の気持ちがどこにあるかを神様が見て下さるのです。紙一重という言葉があります。いくら自分が立派なことをしたとしても、神様の立場ではどれも同じです。自分にとっては、他の人より良いことであっても、それはあまり変わりません。神様は天地の創造主で、私達を創造された方だから、いくらでも私達を作ることが出来るので、いくら私達が良いことをしたからといって、それで認められるのではなく、重要なことは私達が神様の前に立って 「自分は何の意味もない。神様の恵がないと生きて行けない」 と神様に言える人こそ神様の子供になれるのです。そういう意味で改めるという意味よりは、神様の方に心を回そうという意味で “回心” という字を使います。ですから回心とは、神様が何を望んでおられるか、神様の方に向くためには何をすれば良いかを考えることが本当の回心の意味ではないかと思います。その様な気持ちで赦しの秘跡を受けると必ず神様が聖霊を送って下さいます。
 また、私達は傷つけられることもありますが、むしろ自分が他人を傷つけこともたくさんあると思います。しかしその傷つけたことも神様から許して貰わないと気が安まらないのです。昨日、私はある信者の家庭でご飯をご馳走になった際、余計な一言を言ってしまいました。家に帰ってその人を傷つけてしまったのではないかと気付き、メールで 「すみませんでした」 と送りましたが、なかなか返事が来ないので落ち着きませんでした。その後 「大丈夫ですよ」 という返事をもらい心が休まりました。
 この様に自分の知らないうちに人を傷つけていることも結構あります。何故というと、私達は育った環境も違うし、考え方も違うから自分の一言が相手にどの様な影響を与えるかは誰も知らないからです。私は韓国人ですから 「韓国人は・・・」 と言ってしまいますが、韓国の人からは 「そんなこと言わなくても」 と不快に思われているかも知れません。同様に知らないうちに傷つけられることもあります。その時は気付かなくても後になって、ものすごく怒る様なこともあります。だから傷つけることもあるし、傷つけられることもあるから、その様なことを全部含めて神様の前で、「自分の気持ちはこの様になっています、この様な状態です、許して下さい」 という気持ちになれば、必ず神様は新しい気持ちを与えて下さいます。
 私達が復活祭を迎える心の準備は色々あります。節制することや断食をすることがありますが、その色々なことの中で大切なことは心をきれいにする作業だと思います。心がきれいにならないと復活祭に与ったとしてもあまり喜びはないと思います。一生懸命四旬節を過ごして来た人が復活祭のミサに与った時の気持ちと、何の準備もしないで与った人の気持ちは全く違います。私は毎年、灰の水曜日には、今年はどういう気持ちで過ごすか、どういうことを決心したかを必ず言います。何故かと言うとそれを言ってしまえば、守らなければならないから守るように努力するためです。そうすると40日はとても永く感じます。普段はさっと過ぎてしまう月日ですが、まだか、まだあると思ってしまいます。今年は毎日一人を選んでその人のために祈ると決心しました。しかし忙しかったりするとついお祈りをさぼりたくなることもあります。けれど決心したことを皆の前で言ってしまっているので、守らなくてはならないから祈ります。だから四旬節は辛いです。早く復活祭が来れば良いという気持ちになります。
 私達が四旬節を過ごすためには心の準備は大切です。何もしないで四旬節を過ごすと、毎年四旬節が来ても、復活祭が来ても心の状態が変わりません。喜びを得るためにはその準備の段階として、心をきれいにすれば本当の喜びが得られると思います。
 皆様は色々なことをしてこの四旬節を過ごしていらっしゃるかと思いますが、あと残りの期間を、どの様に過ごせば良いかということを深く考えて、喜びが与えられる復活を迎えられる様祈っています。
     
                                            ありがとうございました。
 

2008年 2月10日|2月17日|2月24日|
     
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