ホームに戻る前のページに戻る
     聖書朗読は、女子パウロ会HPへリンク
       (現在、リンクが出来ません)
      
印刷用ページが開かない時は
Adobe Reader をダウンロードしてください。

Get Adobe Reader
9月|10月|11月|12月|

2007年 12月2日|12月9日|12月16日|12月23日|12月24日|12月25日|12月30日|
       
                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
       このページの先頭へ                                     大晦日・感謝のミサ   金 大烈 神父   2007年12月31日(月)
    
 大晦日、その年の最後の日のミサです。どんな気持ちでこのミサに与ったらよいかわかりますよね。感謝ですね。感謝の心を込めて与りましょう。
  皆様それぞれに、いろいろなことがあったでしょう。生きづらい時も、又は、喜びに溢れてなんとか表現したいと思うほどの時もあったでしょう。でも一番大事なことは、皆様は今こちらに来て、ミサに与っている。「感謝の心を込めて、あなた(神様)の前にまいりました」 と言う心が表せるということだけでも、素晴らしい一年を送ったのではないかと思います。未練もあるでしょうし、振り返ってみると後悔することもあるでしょう。しかし、それを全部乗り越えて、感謝の心を持ちましょう。これが送年会のミサの大事な意味ではないかと思います。
 今年は、私にとっても個人的にいろいろありました。まず、渋川教会からこちらに来て皆様と出会うことができました。そして、およそ8ヶ月間皆様となんとか一生懸命に共同体の生活をしたことは、私の人生の中でも大事な変化だったと思います。この場を借りて、皆様に感謝いたします。なによりも教会委員長はじめ、各委員会の方達、いろいろな面で、手伝うということではなくて、助けて下さったことを本当に感謝いたします。又、目に見えない所で、きれいな共同体を作るために奉仕して下さった人達がたくさんいることも、私は知っています。こういうことを続けていれば “みんなに喜びを与える共同体になる” という理想が、現実的なものになると思います。本当に感謝しています。
 今日の福音の中でイエス様は『光』にたとえて語られています。光の反対は闇です。この世の中で闇が好きで、悪が好きで、否定的な面が好きで生きている人々はいないでしょう。しかし私たちはいろいろな闇を体験しながら生きています。その闇をなくすために私達が持つべき唯一の希望、 すなわち、全ての否定的な面を破るために必要なのは『光』です。人間が作った光でなく、光自体であるキリストに委ねることによって出来る希望です。『光』によって照らされ、同じ光を照らすことが出来れば何と言う幸いでしょうか。
 お願いします。今年を見送りながら、覚悟を持ちましょう。クリスマスの時にも申し上げたように、来年、私達は一人一人がそれぞれの希望に成って頂きたいのです。辛いことがあっても、苦しいことがあっても、絶対色が変わらない希望、キリストという光を持っている希望になって下さい。そうすれば、私たちは絶対倒れないと思います。イエス様が共にいらっしゃること、み言葉がおられることを信じながら生きましょう。来年は肯定的な生き方をすることを私たちの目標にしましょう。
 今夜、一年の最後の日で、いろいろな国の人達がこのミサに与っていますが、私の話がわかりましたか?どうですか?(数人の外国の人に質問するが、皆首をかしげる) このことが、私が一番困って、心を痛めていることです。私のこの心を皆様全員に伝えたいんです。 なるべく、いろいろな国の言語で話したいんですけれど、時間的にも現実的にも限界があります。それで、どのようにすれば一番良いかといつも考えてきました。
  話が変わりますが、外国からきている方達にお願いがあります。ここは日本です。日本の国の中にある教会です。もし、日本で骨を埋めるつもりなら、日本語を習って下さい。特に子供を持っている外国の方は、ぜひ、日本語を習って下さい。
 私が渋川にいた時、心を痛めたことがありました。渋川には若いフィリピン人のお母さん達がたくさんいらっしゃいます。ご主人はほとんど日本人です。結婚して子供が生まれます。まず、一番の難しさは子供のことです。フィリピン人のお母さんと日本人のお父さんの間にできた子供は普通の日本の家庭に生まれた子供より言葉の習いが遅いんです。なぜならお母さんから日本語を習うことができないし、お父さんは仕事から帰ってきても子供と伴う時間が少ないからです。勿論、子供は幼稚園、小学校、中学校を通して普通の日本の子供のように日本語が上手くなります。しかし、違う問題が出て来ます。それは、お母さんが日本語がわからないために母と子の会話ができなくなることです。こんな悲惨なことがあるでしょうか。自分の腹を痛めて生んだ子とコミニュケーションがとれないというのは。子供たちはお父さんとお母さんの中で育てられます。特にお母さんからの影響は大きいです。何とか深刻にその解決点を捜さないといけないと思います。一番良い解決の方法は子供のために日本語を習うことだと思います。すぐに国に帰る人は、習わなくてもかまいません。しかし 「あなたの国は、国籍は、日本です」 という子供を持っているお父さんとお母さんは、日本語を習って下さい。それは大事なことであることを覚えてください。
 私の望みは、他の言葉を使わずに、日本語で通じて欲しいということです。しかし、それができなくて悩んだ一年でした。特に、外国の人達のためにその国の言葉で話して、私の心を伝えられたら最高だと思いましたが、いろいろな事情があってできませんでした。とにかく、月に一回は各言語別のミサが出来るようにすることを望みました。自分が出来るミサとそうではないミサとをかまわずに出来るだけ担当司祭として与かりました。分からない言葉のミサにはお知らせの時間を利用して通訳してもらって心を伝えました。色々限りがあった一年でしたが、 それでも神様の目にはきれいに見えたんじゃないかと思います。外国人の兄弟姉妹たちに、私が全てのことを果たすことができなかったことを理解して欲しいです。 この一年を本当に感謝いたします。
                                         ありがとうございました。
   

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
      このページの先頭へ                                      聖家族の祝日   金 大烈 神父   2007年12月30日(日)
    
                     《私達は神に選ばれた聖家族》
  クリスマスからの一週間、忙しくも意味のある時間を過ごしました。さあ、きょうは三つのことについて話をしようと思います。
  まずは “聖家族” のことについてです。聖家族というのはどの家族を言うことでしたか。そう、ヨゼフ様、マリア様、そしてイエス様の家族ですよね。3人の家族の共通点は何でしょうか。皆、私達に、ものすごく尊敬されながらも、実際の彼等の人生は最後まで苦労ばかりでした。しかし私達はその3人を聖家族として尊敬し、私達もその様な家族になりたいと願っています。
  今日、聖家族の日を迎えて皆様に話したいことは、まず 「自分が死んだ時泣いてくれる人に最善をつくして下さい」 ということです。本当に大事にして下さい。
  今のこの時代は、必要な “権威” さえ失ってしまった様に感じます。父親が父親として、夫が夫としての権威を失ってから長い時間がたち、また教師も子供達に職業的とさえ感じられる様になってしまいました。
  第一に “父親” を大切にして下さい。大事にして下さい。これは変わらない真理です。どの家庭でも父親が自分の位置にきちんと立たなければ、どんな家庭でもその家庭は崩れます。父親をその位置に置くのは母親であり妻である女性の努めです。子供にその様に教えるのも母親の役目です。それをしなかったらどんな家庭でも、子供達が第一の “被害者” になり、そしてもっとひどく母親にあたる様になります。ご婦人達にお願いがあります。父親、ご主人に対して本当に心を込めて最善を尽くし下さい。
 第二は子供の先生はやはりお母さんです。自分の妻、子供達のお母さんの “権威” を認めて下さい。母親、妻は何か “影” の様な存在です。妻が “家族の者が疲れた時の心の休まる場所” その様な役割を果たすためには、ご主人がその環境を作ってあげなければなりません。その様なことが出来れば子供たちはたくましく、元気に育ちます。よく振り返ってみて下さい。私は子供達の前でその父親を責めたことはなかったか。私は子供達の前で自分の妻をしかったことはなかったか、よく考えてみて下さい。多分あるでしょう。しかしそれは責められた相手の被害ではなく、それを見ていた子供達の傷になります。それを意識しましょう。大事なことです。そしてその子供達が繰り返して同じことをしない様に、正しい生き方をする様に父親・母親は目上の者としてそれを大事にしなくてはならないと思います。
 さあ、少し信仰的な話をしましょう。 “聖家族” というとそれは全家族が信者である家庭をいいます。今ここにいらっしゃる皆様方の中には、ご自分だけが信仰の生活をなさる方もいらっしゃるでしょう。しかし教会が求める模範的な聖家族になるために私達は頑張らなければならない。時には私達は錯覚していることもあります。 「私は一生懸命信仰の生活をしています」 「家族の他の者はイエス様には出会わなかったけれど私はその家族のために祈っています」 それは正しいことです。しかしそこには錯覚が一つあります。その様な考え方は何か利己主義的、わがままな信仰であると思います。よく考えて見て下さい。自分が “これは宝物” “一番大切なもの” と思ったものを一番愛する人に、一番身近な人に何故、力を尽くして伝えないのでしょうか。これは教会が皆様に願っていることです。ご自分の信仰が確信に満ち、誇れるものであるなら家族のために最善を尽くして下さい。それは必ずのちに神様に聞かれます。私達の持っている信仰は自分達だけのものでは絶対ありません。今日聖家族の日を迎えて、ご主人、奥さん、子供達の顔を思い出して下さい。そしてこのミサを、自分を忘れてその人達のために捧げましょう。
 さあ、2番目、第2朗読に 《皆さん、あなた方は神に選ばれ聖なる者とされているのですから哀れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい》 とあります。これも私達が錯覚する一つです。日本の教会の信者は “誰かに誘われて” ではなく “自分の意志で” 教会に来た人の方が多いです。自分が教会、信仰に興味を持ち教会を訪ね、そして洗礼を受ける方がほとんどです。渋川の教会では70%でした。この様なことは 「自分も誘われなかったから、人を誘うのが苦手」 という意識を持ちます。そういう雰囲気の中で私達は錯覚してしまうのは、「私がイエス様を選んだ」、「私が洗礼を希望した」 と思ってしまうこと。いいえ、とんでもないことです。今日、使徒パウロによって話された様に 「神様が私達を選ばれました」。「私が選んだ」のではありません。私達に与えられた資格は 「はい」 「いいえ」 と答えることだけです。こういうことを私達が忘れてしまうと私達は積極的になれません。本物の神様の愛を感じられません。私達は呼びかけられて、ただ答えるだけです。「はい従います」 「いいえ従いません」とかその決断をするのが私達です。呼びかけるのは神様です。それを意識して下さい。信仰の生活すべては神様の呼びかけです。その呼びかけに私はどの様な答えを出すのか、私は応じているのか、それを振り返りながら前に進んで行くのが信仰の生活だと思います。
 さあ、3番目のお話ですが、昨日お葬式のミサがありました。亡くなられた方は私が全く知らない、一面識もない人でした。ずっと前に洗礼を受けられましたが、ご病気のためにこの1年以上は寝たきりの状態で教会に来られるのが困難でした。事情を考慮し、お葬式のミサを授けましたが、その時皆様に必ず伝えようと思ったことがあります。「死ぬまで顔を見せて下さ」 「死ぬ前に是非顔を見せて下さい」 「ご家族は私に『来て下さい』と要求して下さい」。悲しかったです。説教しようとしても彼について何も知らない、何を話すべきか分からない。
 今日聖家族の日、広い意味で私達は本当の家族です。 “兄弟姉妹” とは口だけでしょうか。隣に座る人を “私の兄弟” と思っているでしょうか。私は皆様の神父です。教会の家族の中で “父親” かも知れません。本当にもどかしい心でした。
  私達は皆兄弟姉妹であり家族であるということは、今ここにいる人にも責任を感じなければならない。どなたかが秘蹟を受けることが困難であれば、周りの私達が力を尽くさなければならない。私達が動かなければならない。何かの不便さのためになかなか教会に来られない人もいます。その様な人に私を会わせて下さい。必要なことです。教会を離れてお葬式だけを頼まれても受けられません。私は自分の家族を守ります。葬式ミサは他で行う様な儀式的なものではありません、軽いものではありません。葬儀は神様のもとに帰られる人のために、全信者、全共同体が心を込めて捧げるミサです。ただ儀式的に行うことは死んだ方への礼儀にも反します。私はこの私の家族のためにミサを捧げます。お金や習慣、文化的な理由で行うものではありません。信者である場合は通夜もミサを捧げます。しかし信者でなかったり、永い間教会を離れている方にはミサを授けられません。また未信者同士の結婚式もお断りします。
 さあ、「聖家族」の日、もう一度家族の大事さを考えながらこのミサを捧げましょう。

                                                                        ありがとうございました。
     

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                    主の降誕(日中)   金 大烈 神父   2007年12月25日(火)
    
   クリスマスおめでとうございます。昨晩(イブ)のミサに来られなかった方いらっしゃいますか? 手を上げて下さいますか? それではその方達に特に「おめでとうございます」
  今日、私達はうれしい顔をしなければなりません。うれしい顔をして下さい。さあ、ひとつのことを申し上げたいと思います。
  ある司祭がいました。その司祭はフランス生まれで、南米、ヨーロッパを回りながら、自分の召命をきちんと果たした方でした。良いこともたくさんあったので名前が知れ渡り、人気者になりました。その人にある時、ある記者が来てインタビューをしました。 
  「神父様、これは私の個人的な質問なのですが、伺ってもよろしいでしょうか?」 
  「はい、どうぞ」 
  「私はいつも気になることがあるのです。私もフランス人であり、幼児洗礼で、今まで信仰の生活をしてきていますが、まだ確信ができません」 
  「それは何でしょうか?」 
  「神父様は今までいろんなことをなさってきて、そして、60歳になっていらっしゃいますが、いつかは亡くなりますね」 
  「はい、そうです」 
  「もし、亡くなって、天国とか地獄とかそういう所がなかったらどうしますか? 今まで神父様が信じて、いろいろな人々に伝えてきたことが、全部事実でなかったらどうしますか? どんな気持ちになりますか?」 
  「そういうことはありえないと思いますが、もしそうであっても、私はかまいません。私が60歳までやってきたこの道は天国でした。天国の生き方をして本当に幸せな人生でした」 と言う告白でした。
  私は太田教会に来て皆様と初めて会った時に、このように申し上げました。 「条件なしに幸せになって下さい。無条件に幸せになって下さい」 と。人間は限りがありますから、条件を作ったら、条件の中にいたら、絶対幸せになれません。これを果さなければ、私は幸せになれない。これを完全に手に入れなければ、私は幸せになれない。という条件つきの人生が私達の人生です。しかし、よく振り返ってみてください。欲しいものを手に入れ時は、たぶん幸せですよね。その幸せはどの位続くのでしょうか?
  あの司祭を通して習ってほしいこと。それは、自分の心をこの司祭のように持つことによって、私達の人生が全然変わるということ。それを意識してほしいです。
  今皆様は幸せです。ただ幸せであることを気づかないために感じられないだけなのです。どのように感じられるでしょうか?よーく感じてみて下さい。
  今日はクリスマスです。イエス様が2000年前に来られた理由の一つは、あなた方に絶対変わらない幸せを求めて欲しい、それをあなた方が望むなら必ず与えられるというメッセージを伝えるためだったのです
  私達は幸せです。なぜなら(昨日も申し上げましたが)一番大きな理由は、私達は生まれる前から神様に愛されている、今も愛されている、これらも、永久(とこしえ)に愛されるからです。私達は一番大きな力によって一番必要なものを受けています。それを悟るのが信仰です。そうすれば無駄に力を使わずに、無駄に条件をつけずに生きることができて楽になります。皆様の愛する人々の顔をもう一回思い出して下さい。幸せですよ。
  「言(ことば)は神であった。・・・(略)   言は民の所へ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じた人々には神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1・1~12)
今日の福音ですね。
  私達は神の子です。いろいろな心配も苦労も全部捨てて下さい。それを持っていても良くなることは何もありません。辛くても、難しい状態でも、その中に幸せを捜してみて下さい。必ずあります。
  私達にとって一番大事なものを別の所において、すぐに過ぎてしまうものを捜して動き回っているのが私達の姿です。振り返ってみましょう。私達は幸せにならなければならないのです。私達の命が終わって、神様の前に行った時、神様にこう質問されると思います。 「あなたは幸せだったか?」 その時どのように答えることができますか?
  条件も環境も考えないで下さい。心が幸せになれば体も幸せになります。そうしたら、まわりも幸せになります。これが福音の力です。幸せになって下さい。
                                                                        ありがとうございました。
 

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                    主の降誕(夜半)   金 大烈 神父   2007年12月24日(月)
    
                  《私達は愛される者・希望である》
 おめでとうございます。
 2000年前の今日、ベツレヘムのある村で、泊まる旅館もなく馬小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされた赤ちゃんイエス、その誕生のことを私達は何故祝うのでしょうか。私達だけでなく、全世界、信者であっても信者でなくても、町のあちこちがとてもにぎやかで、喜びに溢れる雰囲気があります。何故その様にするのでしょうか。
 今日、私は皆様に会う前に、イエス様がこの世に生まれたことを何故私達はお祝いしなければならないのか、なぜ喜ばなければならないのか、その答えを探して黙想してみました。
 二つの点について考えてみました。まず一つ目は、神様は皆様が生まれる前から皆様を愛している、それを示そうとイエス様が来られたことです。
 さあ、どういう意味ですか。私達は何故生まれたのでしょうか。生まれて何のために生きているのでしょうか。誰か答えて下さる人はいませんか。
 「親が生んでくれたから」 と言われてしまったらそれは困りますが・・・
 何で生まれたのでしょうか。覚えて下さい。私達が生まれた理由は “愛されるため” です。私達は愛されるために生まれました。私達は愛されなかったら “死” にます。もちろん、限界のある人間的な愛であっても、愛されなければ寂しい。
 私達が生まれた理由、目的は愛されるためです。皆様が愛されるためにどうすればいいか、それを悟りながら生きて行くのが信仰の道です。
 「神様は皆様が生まれる前から愛していた」 と私は言いました。それは真実です。それを知らせるためにイエス様が来られました。過ぎてしまう世の中、本当に無駄なエネルギーを使いながら捨ててしまう真実、宝物、それを思い出して見て下さい。何のために生きているのか、何のために生まれてきたのか。その目的どおりに私は愛されながら生きているのか。考えて見て下さい。
 大体の人は 「愛されるために生きています」 と答えるのが一般的です。しかし愛された経験、体験がなかったら “愛” が訪れて来てもどのようにその “愛” に応えるのか分りません。まず、私達は神様に本当に愛されているという、尊い、貴重な存在であることを認めることです。そうすれば、どの様にこの世の中を生きるべきか分ります。そして “私” だけでなく、私の目に入る全ての人々も愛されるためにこの世にいることを認めたら、この世の中はもっときれいになるでしょう。
 信じて下さい。皆様は愛される価値、資格を元から持っています。愛されなければならないのです。その命、その生命力、私達がまず “変わらない愛” の源であるキリスト・イエス様を探してみましょう。何故なら人間の愛も素晴らしいです。しかし人間の愛には限界があります。人間の弱さはそれを最後まで、とこしえに持って行くのが困難なことです。人を恋しく思い、愛したとしても結局忘れてしまいます。どちらかが先に逝ってしまいます。(天国へ)昇る者も、残された者も結局は忘れるものです。それが人間の弱さです。しかし、それを乗り越える力、生きる生命力の源であるイエス様から頂くその愛を信じて下さい。
 このように質問する人がいます。「人間をきちんと愛すれば神様を愛することになるでしょう?」
しかし順番が違います。正しく神に愛を感じられた者は、正しく人間と係ることが出来ます。いつ許しをもらうべきか、いつ許すべきか、いつ愛を表現すべきか自動的に分ります。しかし自分の頭で自分の目を通して見る人間的な判断だけでは必ず失敗します。
 私達は全て逝きます。今日この瞬間に生まれる赤ちゃんも逝きます。過ぎてしまうこの世の中で私達が求めなければならないのは “変わらない” 何か。“変わらない力”。皆様は愛されるために生まれて、愛される権利・資格を持っています。それを大事にして下さい。
 二番目に黙想したのは、この世の中、人類の歴史の中で、少し反省を込めた目で見ますと人類はこの発展のためにこの世の中を少なからず破壊して来ました。温暖化現象やまた氷山が溶け出し、近い将来その全てが無くなってしまうと言う科学者もいます。イエス様が2000年前来られたのは、“人間は希望”であるということを悟らせるためです。どういうことでしょうか。
 中国に “結んだものは自らそれを解くべきである(結者解之)” という言葉があります。人間が壊した世界だったら、人間だけが取り戻すこと、人間だけが正しい形に戻すことが出来ます。イエス様は人間に希望をおくのを諦めませんでした。
 2000年前に来られた二番目の理由、それは “人間は希望” であるからです。この世のことを振り返ってみますと、心を痛めることが毎日起こっています。しかし、そこからそういう悪い面から解放されるために、私達が人間を希望として認めて期待しなければならないのです。私達各自が “希望” にならなければならない。そして友達や前に立っている人にも“希望”が見えます。そういうことを悟らせて下さるためにもイエス様は来られたのです。人間は希望です。人間は呪いではありません。花より美しくならなければならないのが人間です。しかし、逆に私達は互いに本当に汚いその世の動きを見ます。しかし、イエス様が見せて下さった様に、人間に対する希望を失わないで下さい。まず自らが “希望” になって下さい。他の人に希望を与える希望になって下さい。そのことを私達が悟ることになったら、そのことをイエス様は一番喜ばれるのではないでしょうか。
 ある人は 「人間が壊した自然を回復するには、人間でない何かの絶対的な力が必要」 と言いますが、人間が壊したものは人間だけが直せます。その一環として、その一つの作業として、私達が自分から少しずつ変化して行けば、周りが少しずつ変わります。そういうことを皆様が伝えられる様に、身体で、心で全てのことを使って努力して下さい。その様になったら、もちろん辛くても疲れても、必ずその中には希望が溢れ、奪われない喜びがあります。
 さあ、クリスマスです。私達が何故喜ばなければならないか、その理由について、少し黙想したことを分かち合ってみました。
 私達はこのミサを通して、私達は愛されるために生まれて生きていると言うこと、そしてその目的を満たさなければならないことを心に入れましょう。
 そしてもう一つ、私達は希望です。自分を大切にしながら自分が希望にならなければならないこと、そして神様は私達を諦めないこと。そう信じたら私達は変われます。
                                         ありがとうございました。 
    

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                    待降節第4主日   金 大烈 神父   2007年12月23日(日)
    
   人々の生き方はいろいろ違います。性格も違うし、親からもらった顔立ち、体つきもそれぞれ違います。今日の福音のヨセフもすごい生き方をしています。ヨセフの洗礼名をもらっている方いらっしゃいますか? このヨセフの生き方、幸せに見えますか? 自分が愛した女性、その人と結婚しようと決めていたのに、その女性が自分の知らない人の子をみごもったのです。どんな気持ちになったと思いますか? もし、自分がヨセフの立場だったらどうですか? すべてを賭けて、人生を一緒に生きようと思っていた女性ですよ。怒るでしょう。殺したい気持ちさえ出てくるかもしれません。絶望しますよね。しかし、聖書には 「彼は正しい人だったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」 とあります。その上、夢の中に天使が現われて 「恐れず妻マリアを迎えいれなさい。胎の子は聖霊によって宿ったのである・・・」
(マタイ1・18~22)と言うと、その言葉を信じて天使の言う通りにしたとあります。聖書の中にヨセフの話したという言葉は一言もでていません。彼は最後まで口を閉じて、妻マリアと子供であるイエス様の世話をしました。神様から与えられた自分の役割を果たしました。
 ヨセフの人生をうらやましいと思いますか? 神様から皆様に与えられた役割があります。必ず、それぞれにそれぞれの役割があります。神様の救いの歴史が全うされるためにいろいろな役割が必要です。今の皆様の生きる環境も救いの歴史の役割を果たすためのものです。神様は私達の中にも計画を持っていらっしゃいます。そのご計画に協力しているかどうか考えてみましょう。
 今日は待降節最後の日曜であり、あと一日でクリスマスですね。何をすればイエスさまに素晴らしいプレゼントができるでしょうか? 何を準備しようと思いますか? ケーキですか? 施しですか? 今できることでイエス様を一番喜ばせることは何でしょう?
 今、憎んでいる人がいますか? どうしても許せない人がいますか? その相手とは大体自分を傷つけた人ですよね。人は自分を傷つけた人を憎みます。傷つけた相手を思いながら憎むのが自然の流れです。しかし逆もあります。自分によって傷つけられた人はいなかったでしょうか? 自分が傷つけたことはすぐ忘れるのが人間です。御親切にね、はっきり傷をつける場合もあります。又、自分では知らないうちに傷つける場合もあるかもしれません。人というのは目の色(目つき)だけでも傷をつけたり、つけられたりするものです。
 人間にとって一番難しいことが、自分を傷つけた人を許すこと、その人のために祈ることです。しかし、思い切ってやること。それが、自分を傷つけた人、自分が憎む人のために、又自分によって傷つけられた人のために、心を込めてミサに与(あずか)ることではないでしょうか。神様は 「許しなさい」 と言われました。でもそれで終わりではないのです。その人のために祈ることまで、私達に求めます。カトリックの信者であるなら、許すだけでなく、祈ることまで求められます。
 イエスさまを喜ばせましょう。今10秒間、本当に嫌いな人、憎む人のために、それが妻か夫であるかもしれませんが、心を込めて祈り、又このミサを捧げましょう。これが、神様、イエス様を喜ばせる一番のプレゼントになります。
                                                                        ありがとうございました。
 

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                    待降節第3主日   金 大烈 神父   2007年12月16日(日)
    
                            《クリスマス・・・それは私達の変わらない希望》
  私達は生まれてから何かを待ちながら今までやって来ました。必ず何かを待ちます。期待しながら待つこともあるし、時には何かを恐れながら待つ時もあります。私達は死ぬまで何かを待たなければならない。赤ちゃんの時から歳をとっても何かを待ちます。その待つものが何であるかによって私達の全てが変わります。
 待降節ということはイエス様が降りることを待つことです。今日、その第三の日曜日を迎えています。
 さあ、考えてみましょう。たぶん皆様は、皆様の歳と同じ数ほどのクリスマスを待ちの望み、そして迎えてきました。今年も待っています。何故待っているのでしょうか。何故、同じことを繰り返しながら毎年12月24日の夜を待っているのでしょう。私達にとって何かの意味があるので典礼や祭服を変えて、そのイエス様の誕生を待っているのでしょうか。それが具体的に皆様に何の意味があるのでしょうか。
  信者でない方も、全然イエス様が見えないという方も12月に入るとクリスマスの雰囲気に包まれ歌ったり踊ったり、また町には色々なイルミネーションやクリスマスの歌が流れます。しかし信者である私達にとって、何故クリスマスが「意味」があって待たなければならないものか、考えていらっしゃった方はいますか?
「救い?」「救い」ですか?       
  クリスマスにイエス様がこの世に来られたのは一つの変わらない希望です。「希望」・・私達が待っているのは希望でなければならない。特にカトリック信仰は「希望」の宗教と言われています。私達が本当に待たなければならないこと、それは希望。クリスマスというものは希望であるからです。
  さあ、希望とは何なのか考えてみましょう。「待つ」ことと同じ様に私達は生まれてから何かを「希望」しています。必ず希望します。それは「夢」ということも出来ます。年齢によって夢とか希望も変わるのはあたりまえです。子供の夢とおとなの夢は違います。その違いは自然なことです。
  希望それは何なのでしょうか。今、皆さんが持っていらっしゃる希望それは何なのでしょうか。カトリック教会が皆様に持って欲しいとされている希望とは何なのでしょうか。私達は変わらない希望を持たなければならない。聖書の中には色々な人が全てを捨てて、全てを諦めてイエス様に付いて行ったという表現があります。
  例えばルカ・8章2節。イエス様に付いて行きイエス様に奉仕した、いわゆるエルサレムの婦人達です。その人達は色々なことでイエス様に付いて行く決心をした人たちです。その婦人たちは自分が持っている全てをなげうって、そのお金でイエス様とその一行を支えました。彼女達も子供の時からその歳になるまで色々な希望があったでしょう。その希望を果たすため、夢を手に入れるために一生懸命頑張って来たでしょう。その中でむなしさも時には成功した喜びも含め感情的にも色々な体験をしたことでしょう。しかしある日突然、イエス様との出会いによって自分の人生を変えました。自分が今まで追いかけて来た夢、希望は間違いではなかったか。“本当の「希望」について行きたい”。そして決断をしてイエス様に従うことになりました。
キリスト教が教える希望というものには必ず条件があります。それは「捨てる」ことです。捨てる時こそ真の希望は生じます。
  今日、私達はクリスマスを迎えるためにこのミサを捧げています。振り返って見ましょうか。私達は信仰者としてイエス様のために諦めたことは何であったか、捨てたものは何であったか。ちょっと考えてみましょう。
  自分のものを手に握って、“これは絶対諦めない”という気持ちを持って正しい希望を得ようとすることはあり得ないことです。何故ならこの世の中、色んな価値があっても、その中にキリストが教えた価値が何よりも優先的になって、その価値を求めるためにはほかの価値を捨てなくてはならない場合が多いからです。それは聖書の全ての人物達が証明することです。
  何をすれば良いのでしょうか、何を諦めれば良いのでしょうか。それはそれぞれ皆様によって違うと思います。たまには憎しみ、たまには好み、たまには見栄。色々なものがあると思います。
  クリスマスの真の意味は、今まで私達が間違えて来た道から解放されて、新しい道へ行く希望をイエス様が下さったことを悟り、もう一回挑戦することです。毎年キリストが来られるのを祝う意味は、その方にとって正しい生き方、正しい生き方の意味を私達がもう一回習うためです。私達は希望を持たなくてはならないです。絶対変わらない希望です。すぐ消えてしまう希望は希望ではありません。
  変わらない希望、その希望を築くために何があるでしょうか。いろんなことがあると思いますが、とりあえず、心を綺麗にしましょう。清められた心によって正しい希望が見えるからです。クリスマスまであと1週間ほど残っています。今までたくさんの方がゆるしの秘跡を受けました。本当に感謝します。まだ受けていない方もいらっしゃるでしょう。私は待っています。平日でも日曜日のミサ前でも私は待っています。
  中には告解は苦手だと言う方もいます。震えてしまうという人もいます。震える心が無かったら、それはゆるしの秘跡になりません。震えて見てください、自分の心のために。
  中には涙を流す人がいます。それを恥ずかしいという人がいます。涙を流すことは恥ではありません。それは本能です。私は待ちます。真の希望を得るためです。
  イエス様のために何を諦めたことがあるか。彼に犠牲を払いながら私が捧げたものがあるかどうか、それをまず考えて見てください。そしてそれが無かったら、私が彼から頂く真の希望のために私は何を諦めたら良いのかを黙想が出来る時間になって欲しいと思います。
                                                                        ありがとうございました。
 

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                    待降節の黙想会   金 大烈 神父   2007年12月9日(日)
    
         はじめにこの黙想会を助けて頂けるように、マリア様に祈りましょう。
  (全員で‘天使祝詞’を祈る)
  今日は三つのことについて40分から1時間で終わるように簡略にお話しようと思います。
  まず三つのテーマとは、
    1.弱い者の幸せについて
    2.普段の心と最後の選択との関係について
    3.祈りについて  です。
    
 1.弱い者の幸せ
  生まれてから今まで苦労があったでしょう。生きることは容易(たやす)いことではありません。人生には乗り越えなければならない山が多く、越えなければならない川も多いです。今の時点でも、なぜ私はこうなったのか、なぜ立ち上がる力がないのか、生きる意味は何なのか、なぜ信仰の生活をしなければならないのか
・・・等、迷いがあるでしょう。
 生きることに疲れている人に、黙想に役立つある人物についてお話しましょう。その人は新約聖書の中で一番立派な人に見えますが、一番弱かった人です。使徒ペトロです。このペトロという人はどういう人だったのでしょう? その人格は? イエス様の一番弟子でした。誰よりイエス様についてよく知っていて、何をお望みか理解しやすい立場にいた人です。そして実際に、いろいろな場面でイエス様に告白しています。
  「あなたは生きているキリストです」(マタイ16・16、マルコ8・29、etc.)  しかし、イエス様にみせたのはその反対の裏切りでした。
  イエス様が捕らわれる前、ペトロに 「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うであろう」 とおっしゃると、ペトロは 「たとえあなたと一緒に死ななければならないとしても、決してあなたを知らないとは言いません」(マタイ26・34~、マルコ14・30、etc.)と言い切りました。しかしイエス様が捕らわれた時、人々から 「あなたもあのイエスの仲間だ」 と言われて、「いや、知らない」 と三度もイエス様との関係を否定しています。その時、鶏が鳴き、ペトロは裏切った自分の姿を認め、後悔して大声で泣きました。
  ところで後悔してから、彼の態度は変わったでしょうか? 回心して、もうイエス様を裏切らないようにしたでしょうか? 聖書には、イエス様が十字架を担って歩まれた時、ペトロも共にいたと書いてある箇所はありません。彼はまだ臆病で弱くて卑怯で、陰に隠れて泣いていたのです。自分が間違っていたと悟り、悔い改めても、それでもまだ逃げ場を捜していた。イエス様が亡くなられた後も、捕まることを恐れて隠れていた。イエス様の復活はマグダラのマリアから伝えられたのでしたね。それでもイエス様はペトロを教会の長に選ばれました。ペトロに天国の鍵を預けるとおっしゃいました。全然男らしくない人、軟弱な心を持った人を最初の教皇としたのです。
 ここにすばらしい真理が隠れています。ペトロのことを卑怯者、弱虫と思われるかもしれません。しかし、私達の中にペトロを指さしてそう呼ぶ資格のある人がいるでしょうか? ペトロの卑怯な心、弱い心は私達の中にもあります。その後のペトロの人生はどうなったでしょうか? 聖霊が下った時、彼は180度変わりました。大胆にイエス様のことを述べ伝え、命をかけました。最後にはどのように亡くなりましたか? 十字架にかけられると知り、イエス様と同じ刑では申し訳ないと言って、十字架を逆さにして処刑されました。
  ペトロのこの変化に私達は希望を持つべきです。神様が選んだ弱さがなかったら、この勇気を持てない。人は生まれつきこわがりです。本当に勇気がある人はけんかをしなければならないとき、こわがります。震えます。 「これをやったら死ぬかもしれない、しかし、やらなければならないからやる」 これが本当の勇気です。このことは心理学的に確かなようです。自分のことをあきらめている人も、自分の弱さを認めたら強くなる可能性を頂いていることになります。偽の勇気は弱さを隠すためのものです。
 ペトロは初代のパパ様です。イエス様がこの人を選んだ。弱さを選んだのです。これが救いの道。この世の中に強い者はいません。皆、死にます。こわがりです。一人ぼっちでは生きられません。誰かがいなければ淋しいと思う心を持っています。それを認めたら、想像しなかったような何かができるようになります。神様から愛されていることを本当に正しく理解すれば、頭が下がります。感謝します。すべてのことがあの方の助けであると悟る心ができます。神様があなたを愛していることを確信して下さい。それがわからない人に会うと私は悲しくなります。なぜ自分をそんなに軽くみるのか。神様がその人のためにこんなにガンバッテいらっしゃるのに、なぜ感じないのかと思ってしまいます。
 弱さも、卑怯も、隠すものではなく、正しい強さに行く道です。神のみ旨を悟る者になるために、神に愛されていることを知るために必要なのです。自分の中に否定したいところがあれば、それは神からのプレゼント、幸せと思って下さい。何よりも強くなれる、そして、謙遜も、まことの勇気も頂けると確信しましょう。
   
  2.普段の心と最後の選択
  先々週の「王であるキリスト」の祝日の福音の後半を読ませていただきます。    
  『十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。 「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出して下さい」 と言った。するとイエスは 「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた』
 (ルカ23・39~)
  この犯罪人のことを詳しく書いているのはルカだけです。マタイもマルコもヨハネもイエス様と同じ時に二人の盗賊が十字架にかけられたとだけは記していますが、この二人とイエス様とのやり取りは書いていません。ですから、このルカの書いたことが歴史性があるかどうかはわかりません。しかし、二人がイエス様と共に十字架にかけられたことは歴史的に正しいことと言えるでしょう。
  このルカの書いたことが本当だとしましょう。二人のどろぼうがイエスという騒ぎを起こした人物の両側で十字架につけられました。一人はイエスを呪い 「自分自身を救ってみろ」 と言って嘲笑った。もう一人は 「自分は悪いことをしたのだから、罰を受けるのは当然だが、この人は何も悪いことをしていない。今日あなたの御国で私を思い出して下さい」 と頼みました。十字架の上で取引が行われたのです。イエスさまが公証人となり、二人は何に賭けるか言い合ったのです。天国へ行くか、地獄へ行くかの取引がほんの短い時間に行われたのです。それは刹那のできごとでした。
  この二人の人生を想像してみましょう。たぶん、二人とも辛い人生を送ってきたのでしょう。二人とも良い環境、良い条件で生きられなかったのでしょう。しかし、最後の選択が違いました。二人とも悪いことをしました。一人は自分が悪いことをするのはこの世が悪いからだ。この世を暗闇と捉えていた。盗んだのも、殺したのも、そうしなければ自分がされるという考えで生きてきた。世の中に対する憎しみをイエスにぶつけて呪った。もう一人、イエスを選んだ者は、辛い状況の中で悪いことしてしまったが、自分が正しくないことを感じていた。後悔しながら生きてきたのでしょう。だから、捕まって十字架につけられた時 「私を救ってください」 という選択ができたのです。
  結論を申し上げましょう。最後の時に正しく選択するためには、普段の選択を正しくしようとする練習が必要です。今、少しずつ信仰に心を使い、倒れても、もう一度立ち上がろうとする心、一生懸命生きている普段の心が、最後の時に最良のものを選択できるのだということを意識しなければなりません。
  「このように罪だらけの自分だから、今、回心してもまたすぐ罪を犯す。だから、死ぬ時回心したほうがいい」 と言う人がいるかもしれませんが、そういう人は死ぬ時(最期の時)司祭を呼んで回心する機会は与えられないでしょう。信仰の道は命がけ。とこしえの命を選ぶかどうかの一番大きな賭博のようなもの。普段の、今の状態をよく見るべきです。私は何を憎んできたのか。何で泣いているのか。そうすると、未来が見えてきます。
  いつも、私が 「ミサに与って下さい」 「御聖体を頂いて下さい」 「許しの秘跡を受けて下さい」 と力を込めて申し上げているのは、ある日突然来る最後の時、正しい選択ができるようにするためです。死ぬ前に愛したらいいじゃないか。死ぬ前に良いことをしたらいいじゃないかと思っても、そういう機会は与えられないでしょう。今、自分のすぐそばにいる人が正しい選択をする案内人です。このように考えながら待降節を過ごしましょう。
 どのような心で生きているかを考えるために、この二人の気の毒な人生をモデルとして話してみました。
   
  3.祈りについて
  「求めなさい、そうすれば与えられるであろう。捜しなさい、そうすれば見出すであろう。たたきなさい、そうすれば開かれるであろう。誰でも求める者は受け、捜す者は見出し、たたく者は開けてもらえるのである。あなたたちのうち、子供が魚を求めているのに、魚の代わりにへびを与える父親がいったいいるだろうか。(略) このように、あなたたちは悪い者であっても、自分の子供たちに良い物を与えることを知っている。まして、天の父が自分に求める者に聖霊を下さらないことがあるだろうか」(ルカ11・9~13、マタイ7・7~11)
  「祈り」という言葉は信者でなくてもわかりますよね。しかし、信者の中にも 「祈り」 ということがわからない人が結構いらっしゃいます。また、わかっていても 「自分は祈りができる」 と自信を持って言える人がどの位いらっしゃるでしょうか? 祈りの必要性は感じていますね。祈りの大切さ、必要性は感じているが、それがなかなかできないのが私達です。
  祈りについての考え方を二つに分けてみましょう。
     ・祈りの必要性がわからない人
     ・祈りたくても祈れない人
  祈りの必要性を感じない人、祈りは必要ないという人は、イエス様に出会う方法は祈りではないと言います。貧しい人とともに汗を流して働き、奉仕することでイエス様と出会うと・・・。社会活動(奉仕)の方が祈りより良いという考え方です。しかし、信仰者である私達がそのように考えるなら、偽りです。100パーセント詐欺です。私達は祈りなしにイエス様のみ旨をわかることはありません。祈りによって知恵を頂きます。知恵は神様のみ旨を理解させてくれます。それが祈りです。
  祈りなしに良いことができるというのは、信者でない人で生まれつき心のきれいな人、そういう人もいます。神学者はそういう人を匿名のキリスト者と呼んでいます。私達は匿名ではありません。名前をもらっているキリスト者です。悪いことか、正しいことか、どの道を歩むべきかを知る、それが祈りです。祈りの味がわからなかったらおもしろくないでしょう。無意味に感じるでしょう。神様が喜んでいらっしゃるのか、悲しんでいらっしゃるのか、わからない。祈りの必要性を否定する人は跪いて(ひざまずいて)祈る時間があったら、その時間奉仕した方が良いと言いますが、それは大間違いです。まず、祈ってから奉仕するべきです。祈らないで奉仕するのは自己満足です。私達が良いことをする理由は神様を喜ばせるため。祈るとは、自分のすべてが神様から与えられているという幸せを感じることです。そして、その幸せを他の人に伝えることです。
  幸せにも二種類あります。
     ・隠して、自分だけで感じる幸せ(宝)
     ・皆に見せたい幸せ(宝)
  隠したい宝とは見せなくて良いもの。恥のようなもの、神様が下さった表わさなくてよい宝です。見せなければならない宝とは、弱さを乗り越えた笑顔のようなもの。例えば、どこかの食堂に入って食事をする時に、神様に感謝の祈り(食前、食後の祈り)をしますか? 以前、私は数人の信者さんと食堂で食事をしたのですが、十字を切って祈る人がいなかった。腹が立ちました。又、ドライブをしている時も祈ろうと言う人がいなかった。悲しいことです。恥ずかしがらずに人前でも十字を切って祈りましょう。この祈りは隠した方が良いか、表すことによって、他の人の助けになるかの識別力が必要です。
  「この人に一番良い方法はなんでしょうか。イエス様教えて下さい」 これが祈りです。夫婦の間でもこのように祈ることが大切です。いろいろな祈り方があります。それぞれ祈り方が違います。でも相通じることが一つあります。祈るために何が必要でしょうか? ‘時間’が必要です。時間を取って下さい。
  「朝夕の祈りを必ずします。食前食後の祈りもします。でも祈りの味がわかりません」 と言う人がいます。雑念で集中できなくても、祈りです。眠ってしまっても、祈るために時間を取ったことに意味があります。聖書を読む。眠くなるのに一番良いものですよね。特に旧約聖書は・・・。それでも時間を作って下さい。そうしているうちに納得することができるようになります。
  私がこの教会を好きな理由の一つは、お聖堂によく人が来て祈っていることです。疲れた時、悩んでいる時、辛いことがあって悲しい時、会社の帰り、買い物の途中等、ご聖櫃の前で祈っている姿を私はしばしば見ます。これが教会のうれしい姿。こういう人がもっと増えてきたら、すばらしくなります。
  祈りは喜びです。義務でするものではありません。自ずからでる何かによって正しい道を歩むために大切なもの。はじめのうちはやりたくなくても時間を作って下さい。一人でお聖堂でボンヤリするだけでもいいです。毎日時間を決めて祈るのもいいです。祈りの恵みはすばらしいです。祈りましょう! なぐさめ、勇気を神に求めて下さい。
  もう一度読みます。
  「求めなさい、そうすれば与えられるであろう。捜しなさい、そうすれば見出すであろう」
一言で言えば、「祈りなさい」 ということです。祈ることも練習が必要です。会議に出席する時も一言 「知恵ある集いになるように助けて下さい」 と祈る。このようにしたら神秘的な関わりができると私は信じます。
  今ちょうど一時間経ちました。この黙想会で何を話そうかと迷っていた時、大泉地区の地区集会がありました。その地区の家族の人達と話し合っていて、このテーマを黙想会で話そうと決めました。
  
  最後にまとめます。
     1. 自分の弱さは恵みであることを知ることによって、神に選ばれたのだと悟ることができる。神に愛されていることを自信をもって信じて下さい。
   2. イエス様とともに十字架にかけられた二人の犯罪人から悟ることは、ある日突然良い選択はできないということ。普段の状況の中で、常に良い選択をする練習をしていなければいけないということです。
     3.祈りは必要なものであるということ。祈りのために時間を作ること。歩きながらでも、座ったままでもいいから祈る。そのようにしたら、今まで経験したことのないような幸せを感じることができると思います。
  最後に主に感謝して、主が教えて下さった祈りをささげましょう。
  (全員で‘主の祈り’を祈る)
                                                           ありがとうございました。
 

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                    待降節第1主日   金 大烈 神父   2007年12月2日(日)
    
         今日は何の日でしょうか? 待降節の第一の日曜日ですね。待降節の意味は何でしょうか?
何を待ち望むのでしょう? イエス様のお誕生ですね。今月24日第四待降節まで一つのことを意識してみましょう。
 私達が待ち望んでいるのはイエス様です。聖堂に入る前、左側にベトナムの家族の人達が馬小屋を作ってくれていますね。それは教会の馬小屋です。私が皆様にお願いしたいのは、「皆様の胸が馬小屋になって欲しい」 ということです。今まで皆様が何回クリスマスを迎えたか私は知りません。しかし、今年の待降節は「本当にこれが赤ちゃんのイエス様の誕生のことだ」 という体験ができるように準備しましょう。その馬小屋を四週間作ります。いろいろなことを準備しながら皆様の胸がきれいなちゃんとした馬小屋になるようにガンバッテみましょう。
 その一貫としておもしろいことをします。紙を小さく切って用意してきました。今からこの紙を配りますから一人一枚ずつ取って下さい。エンピツかペンか持っていらっしゃいますか、なければ用意してありますから申し出て下さい。その紙に御自分の名前を書いて下さい。読めないと困りますから丁寧に書いて下さいね。漢字にはふりがなをふって下さい。日本語の名前でない人はアルファベットで書いて下さい。名前が書いてあるほうを中側にして二回折り、畳んで待っていて下さい。
 これは「守護の天使の定め」という遊びです。守護の天使というのは守る天使ですよね。今から皆様は誰かの守護の天使になります。誰の守護の天使になるかわかりません。全然知らない人の守護の天使になるかもしれないし、自分の妻の守護の天使になるかもしれません。自分が誰の守護の天使かは知らせないで下さい。とにかくこの一か月、選ばれたその人のために何か良いことを考えましょう。何をするかは皆様にお任せします。私達も天使になれることを見せたいのです。
 (以上のことをベトナム語、英語、韓国語で説明する)
 それでは、今から紙を配りますから、ご自分の名前を書いて下さい。
 書けましたか? それではうしろから籠を回しますから、その中にその紙を入れて下さい。私も入れます。(三つの籠に回収)
 三つの籠の中身を一つの籠に入れて混ぜます。(それを三つの籠にまた分ける)
 又、籠を回しますから、折り畳まれた紙を一枚ずつお取り下さい。この一か月、皆様はそこに書かれている名前の方の守護の天使になります。もし、自分の名前の書いてある紙を取ってしまった方は違う紙と取り換えて下さい。皆様が取った紙には一人だけの名前が書いてあるはずです。その名前は誰にも教えないで下さい。家族にも、いくら親友でも見せたりしないで下さいね。その方のために、密かにガンバッテ何かをして下さい。
 もう一度説明します。私達は紙を取りました。その中には名前が書いてあります。待降節の間、この名前の人のために密かにガンバルことです。どのようにガンバルか? 祈ってもいいし、平日のミサに何回か決めてあずかってもいいし、きれいなカードに手紙を書いてクリスマスの時に渡してもいい、犠牲をはらってもいい。自分がその人のためにできることをする。皆様各自が守護の天使になること。その人を守るために私は何をしたらよいのか。その人がどの人かわからなくてもいいのです。その人の守護の天使になり、その人のために祈り、心を使ってみること。それができれば、この待降節は大成功です。このような気持ちで待降節をすごしましょう。
私の取った紙には三人の名前が書いてあるんですけど。これはちょっと・・・、まあなんとかしましょう。
 この紙は絶対に捨てないで下さい。クリスマスのミサ(24日、25日)の時に集めて、祭壇に奉献しますから、忘れないで持ってきてください。 
 今、質問がありました。「最後まで秘密にするのですか」と。クリスマスの時にその人に告げます。ですから知らない人だったらそっと調べておいて下さい。
 今日はこれを説教の代わりにします。
                                                           ありがとうございました。
 

2007年 11月4日|11月11日|11月18日|
                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                    王であるキリストの祭日   金 大烈 神父   2007年11月25日(日)
    
          先週は榛名湖畔で震えながらミサを捧げたのですが、風邪をひかれた方がいらっしゃらないようなので感謝致します。
 今日は「王であるキリスト」の祝日です。教会のカレンダーとしては最後の日曜日です。世の中のカレンダーとは約一か月違いますね。今日、全世界のカトリック教会は一年間を振り返って「一生懸命やってきたが神様に喜びを与えることができたのか、自分の生きる意味を意識しながらやってきたのか」 それを反省するとともに、新たな決心をする日なのです。そして、この一年の最後の日曜日を教会は「王であるキリスト」の祝日と定めました。それは何の理由があるのか考えてみましょう。
 イエス様、この世に遣わされて、罪もないのに私達のために十字架につけられた、それも、今日の福音で読まれたように本当に無能な姿を見せながら、それでも宇宙全体の王であることをはっきり宣言し、しかし、悲惨な姿で死んだイエス、その方を、私達はキリスト・私達の救い主と告白しています。彼は私達に何を教えようとしたのでしょうか? 一番大事なこと。それは「あなた方が、本当に幸せになって欲しい」 この言葉にすべて集約されます。私が愛する理由も、隣人と分かち合う理由も、人のために犠牲を払う理由も、結局自分の幸福のためです。しかし、それがなかなか簡単にできるものではありません。
 イエス様は今日、私達にメッセージを下さるのではないかと思います。神様に本当に愛されている者として、どうしたら自分を正しく愛しながら生きていくことができるかを教えているんじゃないかと思います。私たちは 毎日、毎日、新しい日を迎えています。その迎えた新しい一日を最後の日だと思って下さい。 「今日こそ私に与えられた最後の日」そういう思いがあれば無駄に時間を使うことはできないでしょう。憎む余裕もありません。愛するためには時間が足りないと思います。今日は私に与えられた最後の日、これが正しい信仰者の歩む道です。
 朝起きたら感謝します。「今日一日、私はがんばってみます。最後の日だと思って、私にとって何が一番必要なものか、大事なものか、よく考えてそのことのために生きます」 そういう覚悟ができて、そのような一日になって欲しいです。
 イエス様は、ご自分が一番愛されるお母さんの前で、恥ずかしい姿で、惨めな無能な姿で死ぬまでして私達に見せようとしたこと、それは私達の幸せです。私達が今日を尊い一日、貴重な一日、最後になるかもしれない一日、という意識を持って生きられれば、たぶん皆様の未来は豊かで幸せになると私は確信します。もちろん、私達は足りない所がたくさんあります、よくころびます。しかし、今日は神様が準備して下さった一日。そういう意識こそ私達の信仰の中心ではないでしょうか。
 二番目に申し上げたいこと。洗礼の時のことを思い出してみましょう。洗礼を受けた途端に、私達に与えられる賜物が三つありますね。それはなんでしょう?
   1.王職にあずかること。
   2.預言者職にあずかること。
   3.祭司職にあずかること、です。
どういう意味でしょうか? 皆様はイエス様のような生き方をしなければならないということです。イエス様は私達の王です。どういう王でしょうか? この世の王といえばこわい存在ですよね。しかし、私達の王であるキリストという方は、あのような(十字架にかけられた)姿です。私達がイエス様のみ言葉、教えに従うと決心した時から、私達もあの王であるキリストのような姿を見せなければならない。洗礼を受けた途端に私達も王です。王様の特徴は何でしょう? 困難な時でも自分のプライドを絶対失わない。自分がどのように尊い者かはっきり解っています。自分が崩れたら周りの皆も崩れてしまうことをいつも意識しています。あの方が見せたへりくだる姿は、王となるためには自分がしもべにならなければならないことを教えているのです。カトリック信者なら必ずそれを見せなければならない、という教えです。キリストが王であるように、私達も王です。神様が下さった品位を失わないようにしなければならないと思います。自分の品位を認める者は、相手の品位も認めます。自分が愛されているとわかったら、相手のことも勝手にはできません。
 次の預言者職。昔、預言者と言えば、明日何が起こるかとか、あなたの人生は・・・というように、占いのような感じで「未来にこういうことが起こるからきをつけなさい」 と言うような人を預言者と言いました。しかし、今は変わりました。真の預言者とは超能力で未来を見るのではありません。カトリックで言う預言者とは、まず過去を振り返って見ます。そして今を見ます。「過去のようにしたらこのような結果がでる。それなら、私はどういう生き方をしたら良いか、どのようにしたら良いか?」 と祈りの中で未来を計ることができる。そういう生き方をする人を預言者と言います。私達も預言者です。ですから、私達の具体的な生き方は、まずいつも過去を見る。次に今の姿を見る。そして、どのようにいけば良いかを予測して見て下さい。よーく祈りながら。そこには必ず聖霊様の導きがあります。私達は時間に対しても、物に対しても、関わりに対しても預言者にならなければなりません。子供に魚をあげるのが良いか、肉をあげるのが良いか、どれが子供たちに対する愛するふるまいなのか、それを考える知恵を与えられます。
 つぎの祭司職。皆様も祭司・司祭です。どういう司祭ですか? 祭儀を行う時、私達のやり方は何かいけにえが必要です。獣を殺して、そうでなければ、いろいろな償いをしながら、他のものを通して自分の罪を捨てようとするのが伝統的な祭儀ですよね。しかし、あの方は永遠で真の司祭ですが、自分がいけにえにならなければならないと示された。実際あの方は自分がいけにえになって下さいました。そうでしょう。もちろん、私達にはいろいろな難しさがあって選ばなければなりませんが、難しい状況にあっても、10回に1回でも私がいけにえになろうとする豊かな心をお持ち下さい。家族の中で、友達の中で、すべてのことで、まずそれを見せようとする心。この共同体がうまくいくために私がいけにえ、灯台になろうという心。それがなければいつも揺れ動いてしまいます。
 整理してみましょう。私達は、王です。預言者です。司祭です。この三つについて意識し、心に留めて下さったら心配しなくていいんじゃないかと思います。
 過ぎた1年を振り返ってみながら、新しく与えられる1年がもっと意味ある、生きがいのある1年になるようにがんばってみましょう。
                                                           ありがとうございました。
 

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                                  年間第33主日      金 大烈 神父   2007年11月18日(日)
    
         榛名湖畔「紅葉狩ミサ」
   参加者:約110名(日本・韓国・ベトナム・ペルー・スリランカ・インドネシア)(バス3台) 
     
  9:00 太田教会を出発(素晴らしい晴天)
山々の紅葉を愛でながら、バスは鋭角なカーブを登っていく。さすがに山頂付近の木々は落葉していたが、まっすぐに伸びる高原の道は気持ち良い)
 11:00 榛名湖着 野外ミサ
      空気は冷たいが青空の下、野外ステージ上に祭壇を作り、ミサを捧げる
    
 暑い国から来ている人達は寒さで震える可能性がありますから、できるだけ早めに終わらせていただきます。
 ここに着いてこれを拾ったのですが、これは何ですか? 落ち葉ですね。過ぎてしまう、地面に落ちているただの葉っぱですよね。しかし、よーく考えてみるとこの落ち葉にも歴史があります。私達はこの落ち葉を見て、「御苦労さま」と言えるくらいの余裕が必要ではないかと思います。
(「なんでしょうか?」「雨」・・・ ミサ途中より曇り、大粒の雨がポツリ、ポツリ降りはじめた。)
 日本の昔からの宗教では、あらゆるものに魂がある、そして、神になれる、ということですよね。それが神道の教えですね。しかし、私はこの場で申し上げます。この落ち葉が神ではなく、きつねが神ではなく、今、空から落ちている雨も神ではないです。あらゆるものが神になれるということではなくて、あらゆるものには神、本物の神の息吹があります。この息吹を感じられるのはひとつの信仰です。ですから、春に芽吹いて、秋には落ち、やがて朽ちて土に帰る落ち葉ですが、ただ過ぎ去るだけの空しいものではありません。すべてのものには神の息吹があります。それを見ようとするのが信仰の目ではないかと思います。
  よくご覧になって下さい。この美しさは見ようとする心があれば、美しく見えます。しかし、「秋だから寒くなったんだなあ」と思うだけなら、それで終わりです。この落ち葉を見ようとする心があれば、その歴史とか意味とか、その中にあるイエス様の意思、み旨が見えるでしょう。
  今日一日、私達は幸せにならなければなりません。その幸せを得るために私達がすることは、きれいな目で、きれいな心で、相手の心、自然の美しさを見るようにすることです。それができれば神様を讃える心が生じるのではないかと思います。
 (「ありがたいですね」  天気は雨からみぞれになってきた)
                                           ありがとうございます。
    
 (その後は曇り、また晴れ、吹雪で湖も見えないくらいになったり、また晴れて湖面に美しい虹を見たりと目まぐるしくも印象深い一日でした)
   
  15:00 榛名湖出発   17:30 太田教会着
 

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                                  年間第32主日      金 大烈 神父   2007年11月11日(日)
    
         見せたい物があります。これは何でしょうか? 千円札ですね。これをこのようにクチャクチャにしたら・・・・。どうなるんでしょうか? 変わらずに千円札ですよね。千円の価値は変わらない。もし火をつけて燃やしたら千円の価値はなくなりますが、燃やされる前は千円です。もちろん何百年か経ったら千円の価値はなくなり、お金としての価値もなくなるかもしれません。とにかく今、これはクチャクチャになっても、新品でも、踏まれても千円です。
  まして人間はどうでしょう。人間には心があります、霊魂があります。神様の姿と似た模様で造られたと聖書は話しています。私達の価値は薄くなったり、濃くなったりするでしょうか。人間である私達、皆様の価値は絶対変わりません。尊い価値、神に愛される価値。ただ私達の人生には紆余曲折があります。倒れたり、難しいことを乗り越えたり、希望したり、またころんだり。人に刺され傷つけられたり、踏まれたり、無視されたり、たまには人を無視したり。しかし、自分も相手も価値は変わらないのです。
 新聞やテレビのニュースを見ると、腹が立つくらい自殺する人が多すぎる。自分の命を自分勝手に切ってしまう。この頃風邪のようにはやっている病気はなんでしょうか? 病院にいくとすぐ “うつ病” でしょう・・・・ と言うんですよね。うつ病だ、うつ病だとしないで下さい。人間って落ち込むぐらい憂鬱な時もあるし、飛びそうに嬉しい時もあります。 自然な人間の感情の動きです。昔、貧しくて食べるものを探すに忙しかった時代には、こんな贅沢な病気なんてありませんでした。病気だ病気だと思っちゃうと本当に、病気に落ち入ってしまうんです。それは病気ではなくて、痛みです。誰でもそうゆうところを持っています。
 皆様の価値は同じです。傷のない人がいるでしょうか? 私も傷があります。水商売する人だけ傷があるんでしょうか? みんな傷を持っています。しかし、神様にとってはみんな愛するかわいい息子、娘です。この意識が私達の中にきちんとあれば、たぶん相手に対しても勝手にできないでしょう。
 さあ、隣の人をごらんになって下さい。皆様の目に入るこの方々は神様に本当に愛されている息子、娘です。その意識があれば自然に相手を尊重することができます。そして自分に対しても自分勝手に自分を使うことを避けられるはずです。
  いつかは、私達は神様の前に立ちますよね。その時、神様がこのように言うのは確実だと思います。
「私があなたに貸してあげた “あなた” をあなたはどのように使ってきたのか?」
「傷だらけです」
「その傷は誰がつけたのか?」
「わかりません」
  お大事にして下さい。今日の福音の最後に「すべての人は神によって生きている」と書いています。ですから、皆様にお願いします。誰より何より自分を大切にして下さい。はっきり言わせていただきます。自分を大切にする方法やふるまいについてわかった人は、相手に対しても大切にする方法や意味をわかってきます。私達はいろいろなことで相手を指さしながら、あいつは、あの人は、と裁きます。面白い話があります。相手を指さして裁く時の指を見て下さい。人差し指は裁く相手に向かっていて相手を刺しています。中指と薬指、小指の3本は自分の胸に向っていて自分を刺し、親指は上に向っていて神様を刺しているんです。そうです、人を裁くのは結局相手だけじゃなくて、相手より自分を裁くこと、そして神様の心を痛めることになります。
 私達は本当に大事なもの。なぜなら神様から愛されるものだから。人間の価値は人間がつけるものではありません。私達につけられた価値は神様がつけたものです。なぜ私達は自分の尊い価値を自分勝手に考えるのでしょうか。燃やされればなくなるこのお金も、燃やされる前は自分の価値を保ち増す。まして皆様はどうでしょうか。
  今日の福音を通して、私達が持っているいろいろな傷やいたみを、神様から頂いた悟りの機会だと思いながら、このミサを感謝の心で捧げましょう。私の中に傷があれば、その傷は神様しか癒せないことを信じながら、このミサを捧げましょう。そして、これから御聖体を頂きますね。 何回も強調しながら申し上げましたが、先ず、すみませんという心を持ちましょう。
「申し訳ありません。一生懸命がんばろうとしたんですが、やっぱり罪の中にいます」 
次は感謝の心を持ちましょう。
「それでも、今日相変わらず、あなたは私の所に来て下さいました。感謝します」 
このふたつの心で御聖体を頂きましょう。
                                           ありがとうございました。
 

                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                                  年間第31主日      金 大烈 神父   2007年11月4日(日)
    
         「私が持っている財産の半分を貧しい人々に施します。また、もし誰かからだまし取っていたら、四倍にして返します」簡単な言葉に聞こえますね。しかし、現実的に私たちはこのようなことができるでしょうか。神様のとりこになった気持で「あなたがいなかったら、私は生きる意味がありません。神様のために何ができるでしょうか?」と言いながらも「財産の半分を施します」ということができるでしょうか?
 先週も徴税人の話でしたね。今日のザアカイも徴税人で、中でも頭だと説明されています。その人がただ「今日、あなたの家に泊まりたい」という言葉を聞いただけで、なぜ「財産を半分施します」というとんでもないことを言ったのでしょうか?
 皆様! ご理解のために物語を作ってみます。ある背の低い男がいました。その人の名はザアカイ。ザアカイは背が低いために、子供と時からいつも皆から無視され、いじめられていました。それで、親に対しても不満を持って幼年時代を過ごしてきました。彼の幼年時代は劣等感そのものでした。ザアカイは人に無視されないためにはどうしたらよいか考えました。自分には力もない、親のうしろだてもない、何もない。私が生き残るにはどうしたらよいか。それにはお金を持つのが一番だと思った。それで徴税人になって、一生懸命やって金持ちになりました。徴税人の頭にもなり、直接、面と向かって自分を無視する者がいなくなり、むしろ自分に頭を下げる者もできました。ある意味では成功した人生でした。しかし、何か自分の心の中で満たされないものを感じていました。これが幸せになる一番の方法だと思ってやってきたのに、何か足らないものがある。それはいったい何なのかと思っていた時、あるうわさが村に広まりました。ある若い預言者が現れて、その人は今までの預言者と違う。その人に出会うと心の病も癒される。体の病気も癒されるし、慰められて勇気をいただける。その人がこの村を通るということでした。ザアカイは体の障碍も治す力のある人がこの世にいるなんて信じられなかったのです。その人が来たと人々が騒いでいるが無視したかった。でも気になり顔が見たくなって、人々が集まっている所に行きました。しかし自分の十字架である低い背のために、大勢の人々に遮られて見えません。しかたなく先回りしていちじく桑の木に登って、その人が通るのを見ようとしました。若い30代の青年が目に入りました。その人も自分を見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい」と言う。この人はなぜ自分の名を知っているのか? 「今日、あなたの家に泊まりたい」と言われる。集まっていた人々は厳しい視線を送るが、ザアカイは喜んで家に案内します。そして言います。「わたしの財産の半分を施します。だまし取ったものは四倍にして返します」と・・・・。
 この話から考えられることは、ザアカイは自分の人生を振り返ると、本当に痛かったみたいですね。痛みを持って今までやってきた人生。自分を救うためにお金を儲けようとした人生。自分の身分を上げるためにやってきたのに、求めているものは得られなかった人生。しかし、その間違いに気づいたんです。自分が求めていたものはこの方にあらわれる何かだと悟ったのです。
 皆さん、イエス様に会いたいですか? イエス様が現れて「あなたを愛しているよ」と言われたらどうですか? それは望んだことが実現することでしょうか?
 さあ、黙想してみましょう。この世には様々な痛みがあります。私達は本能的に拒もう、避けようとします。それはあたりまえ。しかし、逆説的な真実もあります。それは私達は苦しみを通らなければイエス様、神様に会えません。会えないのではなく、会おうとする心が生じないのです。私は何者なのか、なぜこのようなことが起こるのかと考えるでしょう。この痛みを通してこそ私達は神様を捜そうとする心が生じるのです。こういう意味で痛みは負うべきなのです。避けたくても避けられない痛み、逃げたくても逃げ場のない痛みなら消極的にではなく、積極的に受け止めて下さい。痛みを愛しなさいという意味ではありません。受け止めるのです。受け止めることによって、どのように生きるべきか、どのようにイエス様に近づくことができるか、その方法が表れてきます。
 私にも皆様にも、これからもたくさんの痛みが待っていると思います。それを祝福として理解するのか、呪いとして理解するのかは自分自身にかかっています。寂しさでも痛みでも、私達にとって “祝福”として理解しようとする心が何よりも必要ではないかと思います。私達に与えられた痛み、それは神様からの呪いとして与えられたものではありません。痛みには必ず意味があります。その意味を見失わないようにしましょう。
                                                          ありがとうございました。
    

2007年 10月7日|10月14日|10月21日|
                      印刷用ページ(PDF PDF文書) 
このページの先頭へ                                                  年間第30主日      金 大烈 神父   2007年10月28日(日)
    
         おはようございます。
 皆様、今日の答唱詩篇になんと書いてありましたか? 「神が訪れる人の顔は輝く」とありましたね。そうです。もし、私達の顔に輝く何かが無かったら、神様にまだ出会っていない証拠かもしれません。おそらく、その輝きは信仰によって与えられる喜びではないでしょうか。信仰の喜びの笑顔によって、自分もまわりの人達も癒されます。
 3週前の説教の中で「私の信仰はまだまだです」という謙った心を持つのが望ましいと申し上げましたが、今日のイエス様の“たとえ”もそういうものですね。よく見てみますと、この“たとえ”にはおもしろいところがあります。
 神殿に祈りに来た二人の人。ファリサイ派の人と徴税人。立場が違う二人は、祈りの内容も全然違いました。ファリサイ派の人は「私は奪い取る者でなく、不正な者、姦通を犯す者でもなく、あの徴税人のような者でもないことを感謝します」と、自分の正しさを言いました。祈りというより主張するような感じでしたね。しかし、もう一方の徴税人の祈りは「罪人の私を憐れんで下さい」というものでした。そして、イエス様は「この二人の中で義とされたのは徴税人だ」と話されました。
 私たちは既にファリサイ派と言えば、否定的なイメージを持っているので、自然にこの例えを受け入れるかもしれません。しかし、よく考えてみると、少しおかしいところがあります。実際にファリサイ派の人が言った生き方は、模範的な生き方そのものでした。奪い取ることのない生活、即ち正しくお金を儲けたことを意味します。不正ではない生活、即ち信仰の掟を守ってきたことを意味します。姦通を犯さない生き方、即ち誘惑にいつも狙われている今の時代を考えてみても、時代と関係せず、まじめに生活したことを意味します。その上、週に2回断食もしていると言っています。このような生き方は普通の人なら出来ないかもしれません。しかし、イエス様の反応は厳しかったですね。むしろ、遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら「神様、罪人の私を憐れんでください」と祈った徴税人が義とされて家に帰ったとイエス様は話されました。それでは徴税人とは、どういう人だったのかを調べてみましょう。あの当時のユダヤは、ローマ帝国の植民地でした。徴税人は自分と同じ民族からお金を取り税金としてローマに渡し、その報酬をもらいながら富を積んだ者でした。ですから、ユダヤ人に裏切り者と嫌われるのは当然のことでした。実際に正しい生き方を拒んだ生活をしていたのです。
 ではなぜ、イエス様は正しい生き方を見せた人より、正しくない生き方を見せた人を選んだのでしょうか。イエス様の思いは違っていたのです。イエス様がこの例えを通して仰ったのは、表面的に表れる生き方についてではなく、心についてでした。人間はどんなに頑張っても罪の環境に縛れています。この世にいる間は仕方ないかもしれません。正しい生き方をしようとする心、しかも「私はあなたに罪を犯しました」という真実な悔い改め。その姿をイエス様は強調したわけです。
 ファリサイ派の人は、表面的には自分を満足させるくらいに掟通りの生活をしたのですが、それによって他人を見下すきょう慢に落ち、一番大事なことを見失ってしまったのです。もし心からの思いで断食していたのなら、このように生意気な祈りはしなかったでしょう。心から悪を退けて、誘惑を避けていたのなら、このように他人を見下す態度を見せなかったでしょう。 逆に、いつも自分の仕事が信仰の掟に逆らっていることをよく知っていた徴税人は、ただ「憐れんで下さい」という祈りしかできませんでした。謙る心そのものでした。神の前で自分の弱さや罪深さを認めて祈っている姿でした。
 自分が正しい人間だと思う人の陥りやすい罠は何でしょうか。それは自分と同じような生き方をしない人を批判することです。「なぜあの人はこうしないのか」と。
 今日の福音と似た話で、マルコ12章41節から「やもめの献金」というのがありますね。賽銭箱にお金持ち達が大金を献金しました。しかし、やもめはほんのわずかな献金だけしかできませんでした。これをご覧になったイエス様は「一番たくさん献金したのはこのやもめである」といわれました。金持ちのありあまる中からの献金より、やもめが乏しい中から精いっぱいの献金をしたので、誰よりもたくさん献金をしたと言われたのです。
 話は少し違いますが、私は以前から気になっていることがあります。ミサの中の献金の仕方についてです。献金の時になると急にお財布を取り出して適当なお金を捜して入れます。まわりの人を気にしているようにも見えます。日本には美しい習慣がありますね。お金を差上げる時、美しい袋